横浜東支部 副支部長の間島輝利です。松愛会役員を7年間務めさせていただいております。
(役員1年、副支部長6年)
入社式かクイズ番組か
1971年4月1日、松下電器の入社式があった日は、フジテレビの「クイズグランプリ」(毎日15分の帯番組。この後が「スター千一夜」)の収録日でした。大学最後の思い出にと応募し予選を突破、せっかくのチャンスなので何とか出たいと思っていました。人事に言って入社式を欠席しようかとさえ考えましたが、クイズ番組で欠席したいとも言えず枚方の体育館に座っていました。
松下正治社長(当時)のスピーチは、「皆さんはいろんな経緯を経て同じ会場に集っておられます。それは目に見えない『縁(えにし)』があるからです」という話から始まりました。この話を聞き、<フジテレビにいたかもしれないし、入社自体も偶然みたいなものだし>と、妙に納得しました。
松下の入社試験には徹夜マージャンで寝過ごし、1時間遅れて会場に到着。マスコミ志望で、NHKやTBSに訪問したものの解禁日は7月1日。一方、一般企業は内定者が出始めていました。マスコミは何百倍という時代。友人の「練習で受けたらどうだ」というアドバイスから応募したものの、入社するつもりはありませんでした。
会場は英語ヒアリング試験の最中でした。採用の方に受験の旨を告げると、もうすぐヒアリングは終わるので受けられない、先に適性検査や面接を受けてもらうと言われました。注意されるのが当たり前だと思いますが、不思議にこの時、怒られた記憶がありません。
夕方になり、英語のテストを受けていないと採用の方にお話しすると、応接室にオープンリールのテープレコーダーが持ち込まれ、自分で操作しながらテストを受けることに。ところが春闘の真っ最中で、スピーカーから「組合員は○○に集合!」という大音量のメッセージが流れ集中できません。採用の方に、うるさくて集中できないと申し入れて30分延長してもらい、何回も巻き戻しながらテストを受けて帰宅。遅刻もしたしダメだろうと思っていましたが、合格の連絡がありびっくり。何をもって採用されたのか全く分かりません。これも縁の力なのでしょうか。
内定が出た学生には学内推薦が出ず、テレビ局は試験が受けられない羽目になりました。結果的に試験を受けたのは松下電器だけとなり、入社式で「皆さんは『縁』があってここに集った」という話を聞いたのです。
その後、家電の名古屋営業所に配属、以降、千葉住設、東京自動車機器と、家電・住設・特機の営業所を24年間渡り歩き、最後の10年間は広報本部に勤務しました。
テレビに出るということ
名古屋配属の翌年に「クイズ イエス・ノー」(「パネルクイズアタック25」の前番組。司会はどちらも児玉清さん)というMBSの番組に出演しました。先輩にだけ話して有給休暇を取り大阪・千里が丘のMBSへ。本選では幸い2名を勝ち抜き、月給が5~6万円の時代に、賞金4万円をいただきました。会社には内緒でしたが、上司と岐阜の電気屋さん訪問時に、「君はクイズ番組に出ていただろう」と言われました。ビデオ販促用に撮ったのが、私の出た番組だったのです。これも縁かも?
テレビにはその後も何度か出ました。長かったのは1988年11月~89年2月、花王の浴用入浴剤「バブ」のCMに出た時で、毎日10本以上スポットCMが流れました。会社で仕事をしていると妻から「お父さんコマーシャルに出る?」との電話。事情を聞くと、幼稚園の同じクラスのママさんが、電通映像の依頼で小太り(?)の親子を探しているとのこと。人事センターも松下の名前が出なければOKとの返事。翌日に電通映像からスポンサーに見せるビデオ撮りの連絡があり、昼休みに近くの芝公園でインタビュー。2日後に決定し、土曜日に渋谷のスタジオで入浴シーンと娘がバブを入れるシーン、新宿ヒルトンホテル前の路上で街頭インタビューシーンの撮影がありました。
CM出演は会社にも親兄弟にも内緒でしたが、ひょんなことからバレました。得意先の日産自動車の電話を受けた購買の係長(一度だけ会った人)から、CMに出ていますねと指摘されました。この方は後に社長になられますが、偉くなる人は注意力が違うということでしょうか。実の姉さえ気づくのは1カ月くらい後で、姪と甥に指摘されて確認の電話があってからだというのに…。
最初に観た映画は『日輪』
私は映画が好きですが、小学1年生ぐらいに観た『日輪』という、神代の世界が舞台の東映初の“総天然色”映画が最初の映画館体験でした。
小学6年のころ、高松市にナショナルビルができることを親戚のナショナルショップのおじさんから聞き、記念映画会に行きました。あふれんばかりのホールの人込みの中で観た映画は『七人の侍』、その迫力に圧倒され、子ども心にも感動しました。考えれば、このころから松下と「縁」があったのかも。これを契機に映画が好きになりました。
一番よく映画を観たのは高校時代、封切館ではなく3本立て70円の二番館で、高校2年の時には年間154本も観ました。最も印象に残っている映画は大学生のころ観た『2001年宇宙の旅』。中学から早川書房『SFマガジン』創刊号からの愛読者というSFファンで、原作も読んでいたことから絶対観ようと思い、横浜から銀座の「テアトル東京」まで行きました。意味はさっぱり理解できませんでしたが、音楽と映像の美しさに魅了され、これまで7~8回は観ています。また、入社後に名古屋の「中日シネラマ」で、たまたま映画館で出会わせた人事の係長とあんパンを食べながら一緒に観た『人間の条件』6部作一挙上映(なんと10時間!)も忘れられません。
60年以上のギャンブル人生
スタートは小学校低学年のころ。大工だった父親は大のギャンブル好き。花札、サイコロ賭博、競輪、競馬、パチンコから賭けビリヤードまで、麻雀以外の大抵のギャンブルにはまっていた父親は、お正月にお年玉を渡した子どもたちまで相手にして花札を使った「オイチョカブ」。本気で勝負に来る父親に、私たち3人の兄弟は1時間持たずに巻き上げられ、勝負の厳しさを叩き込まれたものです。
麻雀を覚えたのは小学校5年生。隣家の市役所の土木課長宅で、毎週のように部下と打っていたのを見て、隣家の兄弟と私の兄との4人で見よう見まねで始めたのがきっかけ。ある日早めに帰ってきた土木課長が、本格的に教えてくれました。この人は後に建築業者との贈収賄疑惑で自殺されており、悲しい思い出でもあります。
競馬は21歳の時に義兄に連れられて行った中山競馬場が初体験。最初に午前中に出たゾロ目(3・3)を買ったところ、これがビギナーズラックの大当たり、100円が3500円になりびっくり。それ以来50年以上外れ馬券を買っています。思い出の馬券は昭和51年の第37回菊花賞。全く人気のなかったグリーングラスが勝って連勝複式5・6は8030円の高配当、当時どろどろの重馬場で、私は2000円の馬券を買い何と16万円の配当。遅咲きのグリーングラスは、その後、天皇賞や有馬記念にも勝ち名馬の仲間入りを果たします。
麻雀ではいろんな人と打ちました。たまたま知り合いになった日本プロ麻雀連盟のプロ雀士とのご縁で参加した各界交流年末麻雀大会で、同じテーブルになったのが先日亡くなられた宝田明さん。大会終了後に宝田さんが来られ、落語家さんと一緒にプライベート麻雀を半荘2回打ちました。ハンサムでスタイルも良い宝田さんは、麻雀のマナーもきれいでなおかつ大変強く、大負けしました。上海生まれだそうで、従業員の中国人の方と流暢に会話されていたことが印象に残っています。
初めての編集長
松下卒業の9カ月前の2006年8月、縁あって社団法人 日本在外企業協会に出向し、予定より1年早く協会が発行する月刊誌『月刊グローバル経営』(写真)の編集長に就任しました。前任者が大学の教授公募試験に合格し、編集長退任となったためでした。
松下で確かに広報にいましたが対外広報は営業みたいなもの、雑誌の編集には全く経験がなく、60の手習い状態。元編集長にサポートしてもらいながら、一から編集なるものを学びました。幸い子どものころから読み書きは好きでしたので、何とかなったような気もします。
編集長時代に印象に残っているのは東日本大震災の時で、4時からの取材準備中でした。4月号の編集後記には、<…経験したことのない、いつまでも続く激しい横揺れ。「大きいぞ。机の下に隠れろ!」と誰かが叫ぶ。急いでデスク下に避難する。その直後、頭上でドスンドスンと何かが落下する大きな物音がする…>と書いています。その日は帰宅できずに会議室でほかの職員と夜明かししました。震災後も混乱が続きましたが、何とか無事4月号を発行することができました。
協会では、2015年6月号まで約7年弱編集長を務めリタイア、今も編集のお手伝いをしており、頭の体操をさせていただいています。
その後、これまた縁あって松愛会・横浜東支部の支部役員になり現在に至っています。私は川崎市を担当していますが、東京の勤務経験のある会員も多く、訪問時には昔話に花が咲くこともしばしば、これからもご縁を大切にしていきたいと思っています。
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