会員だより 『明智光秀ゆかりの地・探訪(近江・京都)』

会員だより

『明智光秀ゆかりの地・探訪(近江・京都)』

◆はじめに

 2020年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」明智光秀が主役のドラマです。
明智光秀は享禄元年(1528)美濃(岐阜県)で生まれたと言われていますが、諸説あります。(多賀町の説も)
その後、どんな活躍をしたかは全く不明です。歴史に登場するのは彼が41歳の時、織田信長に伴って上洛をして将軍と信長に仕え、京都の代官になり、朝廷、将軍、織田信長とのつなぎ役を担当する頃からです。(1568

◆近江と光秀の繋がり

 元亀元年(1570) 志賀の陣で浅井・朝倉軍と信長軍が大津・坂本で争います。この時、織田方の坂本の山城・宇佐山城の森可成が討ち死します。その後、光秀が城主になり、ここから近江・坂本とのつながりが始まります。
 元亀2年(1571) 信長から比叡山焼き討ちの命が下り、光秀がその中心として活躍します。その功績で志賀郡5万石と比叡山領地の管理、坂本城の建設を許されます。入社4年目で信長家臣団の中で最初の城持に出世します。その後12年間坂本城主を務め、坂本の復興、堅田衆との争いと和睦、高島・大溝城主、織田直澄と光秀の娘と結婚など、近江との関りを深めていきます。
 天正4年、丹波攻略を任されると共に、信長の高級幹部として多くの戦に参戦、さらに京都の代官としての役割など、広範囲に活躍をします。そして本能寺の変を起こす天正9年(1581)(54歳)の直前には、近江西部、山城、丹波を領地とし、京都の代官、丹後、摂津、大和などのグループリーダーとして直接の領地34万石、グループとしては240万石となり、信長配下の中では、わずか14年でトップの知行地と地位を確保します。

 しかし、何故か天正10年6月2日(1582)本能寺で信長を襲撃し、6月13日に山科・小栗栖で謀反者として没します。現在でも信長暗殺の理由は諸説あり定まっていません。

<光秀ゆかりの地を探訪します>
~ 近江編 ~
・坂本城跡、坂本城跡公園

明智光秀像

坂本城跡公園

東南寺近くの石碑。二の丸跡か?

明智塚。坂本城が焼け落ちた後、光秀の名刀を埋める。光秀の墓だとも?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 信長は湖上交通を押さえる事に腐心し、安土・坂本・高島・長浜に城を構えますが、これらはすべて水城で物流拠点です。
 元亀2年(1571)に信長は光秀に築城を命じます。本丸、二の丸、三の丸,天主、小天守のある本格的な城で安土城より先に築城しました。
坂本城は、比叡山を押さえるとともに下坂本は湖上交通の拠点でありここから多くの物資が畿内に運ばれ、莫大な利権を得ました。
 しかし秀吉の時代にこの城は城下町と共に大津へ移築されて遺構が残っておらず、実態が判っていません。
山崎の合戦の時、城を守っていた光秀の娘婿・秀満が天守閣を燃やし、ここで自刃しました。その後、清須会議でこの地を貰った丹羽長秀が再建し、杉原家次、浅野長政と続き、長政の時に大津へ城を移しました。

坂本城跡公園にある鳥羽一郎のド演歌。ボタンを押すと演歌が流れます(先日は故障中)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・宇佐山城跡 大津市南滋賀町

宇佐山城石垣 標高336m

 元亀元年(1569)、信長は近江と京都の国境管理の為、山城を築き城主に森可成(森蘭丸の父)を置きます。
この年の6月、姉川の合戦で浅井・朝倉軍は信長に敗れますが、9月に浅井・朝倉軍は湖西経由で軍をすすめ、延暦寺領地の壺笠山に陣を構え、宇佐山城と対峙します。(志賀の陣)この戦で、森可成は討死し、光秀を後釜に据えます。戦いは天皇の調停で和睦となります。
この時、延暦寺は浅井方に味方をしたので、翌年に信長は報復のため延暦寺焼き討ちを行います。

・西教寺 坂本5丁目

西教寺・山門。坂本城から移築?

西教寺内、明智一族の墓

 

 

 

 

 

 

 

 西教寺は、天台宗・真盛宗の総本山で聖徳太子の創建と言われています。信長の延暦寺焼き討ちでこの寺も焼失しました。
坂本城主になった光秀が再興し、明智家の菩提寺となります。光秀の妻・熙子はこの地で病死、山崎の合戦で敗れた時、明智秀満は城に火をかけ、光秀の子供たちと共に自刃し、ここに祀られた。光秀も葬られたとなっていますが、遺体は無いはずです。

・数多くある光秀の墓
 光秀は、天正10年(1582)6月13日、戦いに敗れて逃げる途中に山科・小栗栖の竹藪で落ち武者狩りにより殺されます。ここは、「明智藪」と呼ばれ、石碑が立っています。首は本能寺に晒され、その後に京都・粟田口に首塚が作られます。墓は亀岡市・谷性寺に供養塔があり、大津市も西教寺にお墓があります。また大津市盛安寺には供養塔があり、高野山や京都の天寧寺には位牌があります。このほかに京都・東山に首塚、妙心寺にも首塚、下阪本には明智塚、京都・慈眼寺には木像と位牌があります。

・聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ) 比叡辻2丁目

山門。坂本城から移築。

森可成の墓

盛安寺。光秀の供養塔がある

盛安寺・太鼓堂。光秀ゆかりの陣太鼓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・安土城

安土城跡

安土城天守閣(復元)

 

 

 

 

 

 

 

 天正10年(1582)6月2日、光秀は本能寺で信長を討った後、京都で朝廷対策をした後、安土城へ兵を進めます。
しかし、瀬田の唐橋が、瀬田城主・山岡氏により落さてれており渡れません。やむなく坂本城に入り、5日まで足止めとなります。
 その間、安土城では日野城主・蒲生賢秀(氏郷の父)が城にいた織田一族を日野城に匿います。そして5日に光秀が安土城に無血開城で入ます。その後、光秀は城を明智秀満に預け京へ行きます
 そして山崎の合戦の後、秀満は琵琶湖を馬と共に泳いで?坂本城へ帰ります。その後、何故か安土城は炎上します。失火とも信長の息子・織田信雄が焼いたとも言われています。

・光秀の出生地、多賀町佐目?

光秀の出生地(案内図)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光秀の先祖は美濃の守護・土岐氏に仕えていましたが、争いがあって近江の六角氏を頼り多賀町・佐目に移住します。ここには光秀が住んでいたと言われる「十兵衛屋敷跡」が残っています。
 山崎の合戦の時、多賀氏など犬上衆が光秀に加担しています。と、多賀の人達は主張されているようです。

明智光秀を歩く(案内図)大津のボランテアグループに案内してもらった時の地図。是非お試しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~ 京都編 ~
・亀山城

亀岡市・亀山城。丹波攻撃の拠点

福知山城。丹波行政の拠点

 

 

 

 

 

 

 

・黒井城 丹波市
  盟友・赤井氏の城を譲り受ける。光秀の家老斎藤氏の娘である
春日局の生誕地。

黒井城跡

 

 

 

 

 

 

 

・愛宕山 京都市左京区
  光秀、戦勝祈願で愛宕神社に登る。「ときは今 雨が下しる 五月哉」

愛宕神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・本能寺 京都市中京区寺町

本王子跡碑

本能寺の変

 

 

 

 

 

 

 

・勝竜寺城 京都府長岡京市

勝竜寺城 京都府長岡京市

細川忠興と玉(ガラシャ)の像

 

 

 

 

 

 

 

 光秀の朋友細川藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)の居城です。
 山崎の合戦で敗北して光秀はこの城に逃げ込む。深夜に城を抜け出し坂本へ向かう途中で亡くなる

・山崎の合戦・天下分け目の天王山 京都府大山崎町

本陣跡

天王山山頂標識

 

 

 

 

 

 

 

 天正10年(1582)6月12日。京都山崎の円明寺川(現在の小泉川)を挟んで、天王山側、秀吉軍3万5千。勝竜寺側
光秀軍1万6千。戦いは僅か3時間で秀吉軍の圧勝で終わる。

◆終わりに
明智光秀はなぜ主君・信長を討ったのか?なぜ謀反は成功しなかったのか?これを考えるだけで楽しいです。
どちらも諸説が沢山あり、書物も数多く出版されています。

 今、光秀ゆかりの地は観光客で一杯です。催し物も色々されています。是非この機会に足を運ばれては如何でしょう!大河ドラマが10倍楽しくなります!!

 NHK大河ドラマはドラマでありフィクションです。歴史的事実と大きく外れていたら、時代考証の先生からストップが掛かります。
しかし、光秀は41歳までの資料がほとんど残っていません。どこで生まれ、親は誰で、いつ生まれたかは判っていません。ドラマの中心は光秀のこの若い頃だそうです。
どんな描き方をしても文句は出ません。作者の創作です。

草津市   西岡 壯

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