会員だより 『 わがまち石山 』

会員だより

  『  わがまち石山  』

1.石山地域の概要 

 石山は石山寺ゆかりの地として有名で、地域的にはJR東海道線石山駅あたりを起点として、瀬田川より西側の鳥居川・北大路・国分・寺辺・南郷等のエリアを指します。
歴史的には1889年(明治22年)にエリアに在する10ケ村の区域をもって石山村が発足し、1933年(昭和8年)に膳所町とともに大津市の一部となりました。
地理的には東端に琵琶湖から唯一流れ出る川、瀬田川を擁し、南部地域には千頭岳、伽藍山
岩間山、袴腰山に囲まれ、風光明媚な地域であるとともに、石山寺,新宮神社、近津尾神社、岩間寺、建部大社、立木観音など数多くの寺社が建立されています。また、古来から交通の要衝かつ京都防衛上の重要地とされた「瀬田の唐橋」が瀬田川の東西を結んでおり、石山は歴史・文化資源豊かな地域として楽しむことができます。
降玄関口の石山駅から足をのばす形でいくつか地域の紹介をして行きます。

2.石山駅及び石山商店街

 JR東海道石山駅の1日平均乗車人員は24,000人余り(2019年度)で県内では南草津駅、草津駅に次ぐ3番目に利用客の多い駅です。大津市南部の拠点であり、市内南部圏域のバス路線や京阪石山坂本線との乗換駅になっています。
立体広場には大津にゆかりのある俳聖・松尾芭蕉の立像が、観光客らを歓迎してくれています。
石山駅の開設は1903年(明治36年)で、その後大正末期に東洋レーヨン(現在の東レ)の工場が操業されて以降、駅周辺が急速に発展して行きました。戦後、東レの再建とともに、石山商店街も業容を拡大していきました。
南口は石山商店街につながり、北口にはいくつかの大規模な工場が存在します。


3.近津尾神社・幻住庵  
 商店街を南下して行くと鳥居川の交差点にさしかかり南進すれば石山寺、瀬田川洗堰、立木観音、東に折れると瀬田の唐橋が見え、その先には建部大社(たけべたいしゃ)、西に進むと近津尾神社及びその境内にある松尾芭蕉ゆかりの幻住庵(げんじゅうあん)に至ります。
近津尾神社は1173年(承安3年)に後白河院が石山寺に行幸の際に石山寺の座主公祐僧都(こうゆうそうず)に命じ、石山寺の鎮守社として創建したとされています。祭神は譽田別尊(ほんだわけのみこと/応神天皇)で、地域の守り神として篤く崇拝されてきました。
幻住庵は松尾芭蕉が1690年(元禄3年)の4月から4か月間隠棲していた小庵で、「奥の細道」とともに著名な「幻住庵記」を著しました。当時芭蕉が滞在した幻住庵は現存してませんが、1991年(平成3年)に芭蕉没後300年記念事業の一環で復元されました。毎年秋には幻住庵保勝会主催の幻住庵芭蕉祭が開催され俳句大会なども行われています。
4.石山寺
近津尾神社から東方向伽藍山(239m)の麓に石山寺があります。本堂は珪灰石(天然記念物)の巨大な岩盤の上に建ち寺名の由来とともに、広く「石山」地域の名称の源となってます。
747年(天平19年)、聖武天皇の勅願で良弁僧正が創建したとされています。東寺真言宗の大本山で、西国三十三所観音霊場第13番札所となっております。「枕草子」「蜻蛉日記」「更級日記」など多くの文学作品にも登場し、紫式部が「源氏物語」の着想を得たのも石山寺とされています。
境内には本堂・多宝塔(国宝)をはじめ経蔵、鐘楼、庭園、巨大な珪灰石など多くの見所のほか、四季折々の花が咲きほこる「花の寺」としても知られており、年間を通して多くの観光客が訪れています。
ついでに「石山貝塚」(1940年発見)も紹介します。石山寺東大門から約50mの所。淡水産の貝塚としては日本で最大規模の貝塚があります。貝塚からは石器や土器など日用品が発掘されています。
付近には螢谷貝塚(京阪石山寺駅近く)なども存在します。

5.瀬田川洗堰~立木観音(立木山安養寺)
石山寺から瀬田川沿いに南進すると、瀬田川洗堰(1961年、昭和36年竣工)が見えます。琵琶湖から流れ出る唯一の瀬田川の水を堰きとめ湖の水位調節と下流の宇治・淀川流域の治水対策の目的で運用されています。現在の洗堰は2代目で、その上流には旧堰の南郷洗堰(1905年、明治38年竣工)の遺構が見えます。
糸賀一雄氏らによって1946年(昭和21年)に開設された知的障害児等の教育・医療を行う日本でも先駆的な施設であった近江学園(現在は湖南市に移転)が南郷の地にあったことに思いを馳せながら南進して行くと立木観音に到着します。新西国三十三箇所第20番札所です。
1200年前に弘法大師が42歳の厄年に人々の厄難、厄病を祓うため立木に聖観世音菩薩を刻み、堂を建てたとされており、地元では「立木さん」と呼ばれ親しまれており、特に1月、2月は参拝客でごった返します。本堂までは約800段もある急な階段を上がって行きますが、階段の途中にある参拝者の詠んだ短歌の句碑を見ながら進むと、しんどさを忘れます。

6.瀬田の唐橋
立木観音から約7㎞ほど瀬田川上流をさかのぼると「瀬田の夕照」で知られる瀬田の唐橋が見えてきます。瀬田橋が最初に史料に出て来るのは「日本書紀」で、672年(天武天皇元年)7月の壬申の乱時の記述で、既に存在する橋として出ているので、最初の橋をいつ、だれが架けたのかは不詳ですが近江大津宮遷都(667年、天智天皇6年)の時代に架橋されたと考えられています。
1988年(昭和63年)に今の橋から約80m下流で古代の橋脚の基礎が2基発見されました。この橋は7世紀から奈良時代までの築造と推定され、橋脚の基礎構造は水圧を逃がすための舟形であり、新羅の都・慶州で発掘された月精橋址や唐の都・長安の灞橋(はきょう)の橋脚との類似点があり、古代東アジアの土木技術がどのように伝播したのか興味のあるところです。
古来から「唐橋を制する者は天下を制する」といわれ、壬申の乱、寿永の乱(1180年~1185年)、承久の乱(1221年)、建武の戦い(1336年)など多くの戦乱の舞台になってきました。唐橋を本格的に架橋したのは織田信長で、1575年(天正3年)に全長324m、幅約7.2m、両側に欄干を備え親柱には銅製の擬宝珠(ぎぼし)が付けられました。その橋も本能寺の変(1582年、天正10年)後、明智光秀の安土攻めを阻止するため、瀬田城主山岡景隆が焼き払いました。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、その時に初めて現在の位置に、中島を挟んだ2つの橋を架けたとされています。
唐橋は多くの戦乱による破損だけでなく、地震、洪水などの自然災害によってもたびたび損傷してきました。しかしその度に人々によっていち早く修復されており、なくてはならない陸上交通の要であったことがわかります。そのほか「急がば回れ」のことわざのことわざの語源になったり、平将門を討った藤原秀衡(俵藤太)による三上山の大ムカデ退治伝説でも知られています。
現在瀬田川を渡るには、唐橋以外にJR琵琶湖線、国道1号線、東海道新幹線、名神高速道路、京滋バイパスといった手段がありますが、人々の生活道路の一部として今もその重要性は変わっておりません。
毎年8月には建部大社(主祭神:日本武尊、大己貴命)の「船幸祭」の大神輿巡回や花火の観賞スポットとして多くの人々が集う場所になっております。
 

 7.むすび
  石山地域1周しての紹介のつもりでしたが、割愛させていただいたところも多くありましたので、別の機会に石山の魅力を広くお知らせしたいと思います。
芭蕉が「幻住庵記」の中で詠んだ句をご紹介してむすびとします。
「先づ頼む椎の木も有り夏木立」(まずたのむ しいのきもあり なつこだち)

令和3年10月   大津市  中山 守さん

 

コメント

    • 今井俊夫
    • 2021年 10月 12日

    石山界隈の記事興味深く拝見いたしました。
    石山は住みよい町ですね。
    まだ、行けてない場所があることが分かりました。

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