『日本語の歴史(3)』
ペンネーム:薩摩のニセドン
さて、前回は「漢字が日本語になったいきさつ」についてお話しました。三回目の今回は、ひらがな、カタカナという仮名(これぞ日本語)についてお話ししましょう。
◆仮名は漢字を真名(本当の文字)として受け入れた日本人が創造した
万葉仮名は、漢字の音読みを並べて日本語として表記したもので、長い時代使われたようである。万葉集がその代表的なもののようで、そこから万葉仮名と呼ばれるようになったようだ。その万葉仮名は、一般の民衆でも読み書きができていたようだ。古事記が作られたのが712年。この頃に再建された法隆寺の天井裏に、大工が書いたものと考えられる万葉仮名による手習歌の落書きがあったことからも想像がつく。
しかし、万葉仮名は多くの漢字を必要とすることから、書く手間は大変なものだったようだ。そこで、漢字や漢文の権威に対して余りこだわらない地位の人や女性は、漢字を表音的に書き下ろす際に、できるだけ字数(漢字の種類)を減らすと共に、字形を簡素化するようになっていった。この早く書きたい(必要)との願いと、意味が通じる範囲(許容)との条件が相まって、万葉仮名はくずし書きにされて“草仮名(そうがな)”へ、さらに女性が歌合わせのために使った“女手”と呼ばれる平仮名へとかたちが変わっていったということらしい。
900年代のものとして発見された紙片に書かれた平仮名は、現代の子供たちでも読めるほどに簡素でやわらかな味わいを持っているそうだ。平仮名が一般民衆の中から育まれて行ったのに対して、片仮名は仏教関係者が漢文で書かれた書物に、フリガナや送り仮名をつける必要から発生したものらしい。平安初期(700年代初め)の『「東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゅもんこう)』の漢字片仮名交じり文は日本最古のものらしいが、正倉院にある4960巻のお経のうち、32種103巻には片仮名で書き込みがされているそうだ。ちなみに、土佐日記(934年)に始まり、枕草子、源氏物語と続く作品は、仮名文学の頂点と言われているようだ。
◆「いろは歌」を仮名の基準とした藤原定家
いろは歌は弘法大師の作品だと伝えられる。
「いろは にほえど ちりぬるを わがよたれぞ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみじ ゑひもせず」
~花の色は匂うばかりに美しいけれども、やがて散り去ってしまう。この世は、何ひとつとして永久不変のものはない。転変する山々を今日越えて行き、浅はかな夢にまどろむことはすまい。酔うこともなく~
いま思っても誠に見事な歌である。この仮名文化が定着するにつれ、日本人による日本語の作品が続々と登場してきたのだろう。
『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す 奢れる者も久しからずや』の平家物語も、漢字文化が日本語として語られ始めた有名な物語と言えよう。
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