『日本語の歴史(2)』
ペンネーム:薩摩のニセドン
前回は『大和言葉と文字の出会い』について話しました。
今回は、中国で生まれた漢字が何故日本語の文字になったのか?
また、中国にも韓国にもどこにもない文字・・・平仮名や片仮名はどのようにして生まれたのか?
そのあたりについてお話します。 お読み下さる方、ありがとうございます。
◆日本語と全く違う漢字・漢文
当時、話されていた日本語(大和ことば)と当時のシナ語とは、言語構造も性格も全く異なっていた。シナ語は“単音節”であるのに対して、日本語は“多音節”であると言う。日本語の頭子音が13であるのに対して、シナ語は37もあるそうだ。(浅学な私には、この説明が全くチンプンカンプンで良く理解できない)
つまり、当時日本に入ってきた最初の文字は、それまで日本人が使い続けてきた音声による日本語を文字化するには、あまりにも関連性がなさ過ぎた訳である。それにも拘らず、こんにち日本語の中心に漢字が居座っているのはどういうことか?
歴史学者や言語学者の研究によると次の理由が考えられるそうだ。
当時は大陸文化のあまりにも大きな影響力があったようで、政治・経済・文化の全てにわたって、漢字でしか学ぶことができなかったということだ。つまり「どんなに苦労しようが漢字を解り、その中から向こうの文化を学ぶ」以外に道がなかったのである。
かくて、日本人は大和ことば(これ以降は日本語と表記します)と全く馴染まない漢字を受け入れ、気の遠くなるような時間を費やして、徐々に日本語化していくことになる。
◆漢字を日本語読みとして使い始める
日本人が漢字を日本語として利用する過程で、重要な役割を担ったのが渡来人たちであったようだ。まず日本語が意味することに最も近い漢字(漢字は表意文字)を選択して教えた。また漢字の音読みを日本語として割り当て文節(言葉)にした。邪馬台国(やまたいこく)や卑弥呼(ひみこ)などの表示方法がその典型である。
当初、日本人は漢字を中国語で音読みし、中国語として書いていたが、言葉のひとつひとつに和訳を当てて解釈するようになった。つまり音読みしか持たない中国語に“訓読み”を与えるようになっていく。
万葉集の「春楊 葛山 発雲 立座 妹念 (はるやなぎ かつらぎやまに たつくもの たちてもいても いもをしそおもう)」のように・・・。
訓読みはいつ頃から始まったのか小生の勉強では定かにできなかったが、607年の法隆寺薬師仏光背銘は、明らかに訓読みで書かれているそうだ。
しかし、漢字を訓読みで書き、全ての意を表現するには一定の限界があったようだ。また一方で、漢字をすべて音読みで日本語として表すには、字数や画数も多く相当な重労働になる。この矛盾の中から仮名が生まれていくことになる。
今回はここまで。日本語と全く関係のなかった漢字が、どのようにして日本語の根幹になったのかのお話でした。
次回は、日本独自の仮名の誕生について話します。仮名はこの地球上で、人類界でオンリーワンの文字ですね。仮名の誕生にも女性が活躍しているのです。お楽しみに・・・
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