運河と言えば直ぐに思い浮かぶのが、スエズ運河とパナマ運河。
水平式のスエズ運河は1869年に開通。閘門(こうもん)式のパナマ運河は1914年に開通した。
ところがどっこい、出雲地方ではもっと古い時代から閘門式運河が運用されていた。
1685年(貞享2年)の江戸時代に松江藩、竜野九朗左ヱ門が開削されたとする「出西岩樋」である。雲南三郡(旧の飯石郡、大原郡、仁多郡)からの産物(米、鉄、木炭など)を斐伊川、岩海川を使い運搬。「出西岩樋」を通過させ、斐川高瀬川へ入り、荘原港(昔存在した。ここから松江行の客船も出ていた)で積み替え、宍道湖を松江へ、さらに松江で大型船に積み替え、大阪方面へ運んだ。
特にたたら製品の運搬で松江藩は潤った。
吉田町からのたたら製品は山道を三刀屋の粟谷へ運び、そこから川舟に乗せた。粟谷にその痕跡が残っている。
閘門式は水路を区切って、水を出し入れし、段階的に舟を水位の異なる川を移動させるもの。天井川である斐伊川から、低い斐川平野の高瀬川へ相互移動させていた。
「出西岩樋」は舟自体の移動が行われなくなってからは、代わりに人力で舟から舟へ積み替えていたと「出西岩樋」の近くのお年寄りが話してくれた。
日本で最初の閘門式運河は1731年開通した埼玉県の「見沼通船堀」と言われているらしいが、運河の定義は別として、「出西岩樋」はその46年前から舟を通し続けていたことになる。パナマ運河から見れば約230年前である。今は田舎の風景が展開されているが、岩樋の周りには、運搬関係者を相手にする宿屋や店が多くあり、一大集落が存在したそうな。
出雲文化は弥生、風土記時代だけではなく、その力を発信し続けていた。
この「出西岩樋」は、今では斐伊川の水を灌漑用水として斐川平野に取り入れる取水口の役目を果たしている。
出西から斐伊川の対岸を見ると来原という地名があり、そこはなんと「来原岩樋」があったところ。
このお話はまた次回。
(情報 和田森洋)
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