風光明媚な、湯浅湾、紀伊水道から四国も望める有田みかん海道から、国道42号線経由 広川町・稲むらの火の館および広村堤防訪れました。
稲村の火の館には濱口梧陵公の防災精神、「稲むらの火」の人命尊重の精神、来たるべき津波災害から大切な生命やくらしを守ることが展示されています。
世界津波の日(11月5日)の制定は、稲むらの火の逸話に由来します。
(和歌山・石山)
【有田みかん海道】
紀伊水道・湯浅湾が眼下に広がる絶景でドライブ・ウォーキングに最適です。
道沿いに巨大風車があり、間近で見ることができます。夕日が美しく、おしゃれなレストランやカフェがあります。
北部には、ENEOS和歌山製油所から和歌浦湾、和歌山市方面が望めます。
天気の良い日には遠く四国(徳島県)まで眺めることができます。
【稲むらの火の館・濱口梧陵記念館・津波防災教育センター】
広川町は有史以来、津波被害に複数回遭遇、特に安政元年(1854)の安政地震津波の被害は甚大で多くの生命と財産が失われました。
この時、田んぼの稲むらに火をつけて村民を高台まで誘導、大勢の命を救ったのが広村に帰っていた濱口梧陵公です。
被災後、私財を投げうって広村堤防を築き、津波により失職した多くの人に仕事を与えたことが、今の広川町の礎となっています。
濱口梧陵公は後に藩校教授や大参事(のちの副知事相当)を歴任、紀州藩・和歌山県経済の近代化に尽力されました。
1880年、和歌山県初代県会議長に就任されています。
和歌山県立耐久高校の創設者の一人です。1852年に地元の広村「耐久社」という稽古場を開設しました。
銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎ、濱口儀兵衛家(現:ヤマサ醤油)当主 7代目濱口儀兵衛の実業家でもあります。
最大速度7ノットという急流・黒潮に乗り古来より紀伊半島から多くの人が房総半島に移住しており同じ地名が各地にあります。
2016年 奈和支部有志で「稲村の火の館」「湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区」訪れています。
【広村堤防】
被災後、私財を投げうって広村堤防を築き、津波により失職した多くの人に仕事を与えたことが、今の広川町の礎となっています。
昭和の時代、1945年前後4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震があります。発生順に鳥取地震(1943.09 M7.2)、東南海地震(1944.12 M7.9)
、三河地震(1945.01 M6.8)、南海地震(1946.12 M8.0)です。
戦時中もしくは終戦直後の地震で約80年前の出来事です。戦禍で大変な時期でもあります。
(データは、ネットで調べました。津波も発生しています)
昭和の戦時中の大地震、津波は、戦争終結早めた側面あるのでしょう。厳しい情報統制もあり国内にはあまり情報なかったのと資料が乏しい様です。