『新』枚方発見 : 第6回 戦争遺産2(香里製造所)

【新 枚方発見について】

2023/8/16 作成

■ 戦争遺産2(香里製造所)

 人口40万人の平和な大都市になった枚方市に、戦前 旧陸軍の禁野火薬庫(大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫)、枚方製造所(陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)、香里製造所(東京第二陸軍造兵工廠香里製造所)の三つの工廠がありました。 今回取り上げる「香里製造所」にまつわる「戦争遺産」です。
今回も、枚方市観光協会のボランティアガイドの方に案内をお願いしました。

今回のコースは、以下の通りです。
南部生涯学習市民センター⇒桜公園【イ4】⇒以楽公園⇒非戦の誓いの碑【イ5】(妙見山の煙突【イ1】)⇒観音山公園【イ4】⇒香里団地(愛宕神社跡)⇒香里ケ丘図書館⇒保坂小児クリニック【イ6】⇒香里ケ丘支所【イ3】⇒桑ケ谷公園【イ4】⇒南部生涯学習市民センター

香里製造所について

香里製造所(枚方市提供)

「香里製造所」は、昭和14(1939)年、中国との戦争の拡大に伴い弾薬の製造拡大のために、「宇治火薬製造所香里工場」として設立され、陸軍が砲弾などに使用する火薬を製造する日本有数の火薬製造所として発展した。香里は、人家が少なく、交通の便がよく、山と谷がはっきりしていて誘爆を防ぐ地形であることから選ばれ、土地を強制買収し、年末には火薬製造が始まったそうです。
 昭和17(1943)年、「東京第二陸軍造兵廠香里製造所」として独立。 140haの敷地に 230棟の建物が建ち、約5000人が働いており、その中には交野国民学校高等科生の勤労動員も含まれる。宇治から送られてきた湿薬(安瓦薬など)を乾燥させ、枚方製造所で作った砲弾につめ、禁野火薬庫で貯蔵された。輸送には片町線の引き込み線が使われ、徴用工や動員学徒などの輸送には京阪電鉄があたった。昭和20(1945)年、終戦により香里製造所操業停止。
 なお、用地買収について、昭和14年12月2日、関係土地所有者が印鑑を持参し村役場へ集められた。憲兵下士官が「土地を軍に返還せよ」と言い、価格の記載のない書類に押印させられたそうです。この後、買収した土地の境界に「陸軍用地」の石標が立てられました。その一部は、今も残っています。

枚方市平和ガイドMAP(香里地区)

香里製造所などの配置図(「戦争と枚方」から)

香里製造所のその後

 朝鮮戦争勃発により昭和27(1952)年、火薬製造工場復活を目指し、民間企業3社から香里製造所の払い下げ申請が提出される。
地元では、1万人の反対署名を集め、国会や政府へ陳情するなど大反対運動に取り組んだ。もちろん、危険の少ない民間の綿火薬工場を誘致し、市税の増収や失業者の救済を考えた市民もいた。
昭和28年1月、衆議院通産委員が現地視察に来た際は、反対派の市民4,000人は、京阪香里園駅から香里製造所まで約1kmの沿道を埋め尽くし反対を訴えた。最終的に通産省は、地元の強い反対と工場を新設しなくても米軍の注文を賄えるため、香里製造所の再開を断念した。

 昭和30年10月発足間もない住宅公団は、住宅5,850戸(施行面積: 1,552,153m2)のニュータウン建設を計画し、昭和33年から入居が開始された。昭和35年 「香里住宅団地計画」日本都市計画学会石川賞計画設計部門受賞。昭和37年(1962年) 2月米国ロバート・ケネディ司法長官夫妻が視察のため来訪。

香里地区の主な戦争遺跡など

※【 】内の文字・番号は、「枚方市平和ガイド」の位置を表す(ガイドMAP参照)

【イ1】妙見配水場内の煙突・【イ5】非戦の誓いの碑

戦争につながる建造物を後世に残し平和のモニュメントにしようと、昭和59年、香里製造所の煙突(高さ:19.92m、直径2m)を永久保存することにしました。
宇治火薬製造所から運ばれてきた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させるための第3汽缶場(ボイラー)の煙突で、戦後、平和を求める市民の願いから、旧香里製造所は香里団地に生まれかわりましたが、計画外にあった煙突は撤去を免れ、水道局妙見山配水池の敷地内にそのまま残りました。毎年、4月初旬に見学会が開催され、間近で見る事ができます。
また、水道局妙見山配水池前の末広公園には、「非戦の誓いの碑」があります。この碑は、戦時中「香里製造所」で学徒動員されていた女学生の有志により、2008年に建立されました。

【イ4】陸軍用地の標石

「以楽公園」へ行く途中の「桜公園」にも「陸軍用地の標石」が残っています。
また、「牽牛石」で有名な「観音山公園」にも「スチームを送ったパイプ」や「陸軍用地の標石」などが残っていました。

【イ2】平和の像「語らい」

平和の像「語らい」は、香里製造所の跡地に建設された香里団地の中(香里ケ丘3丁目)に、平和のモニュメントとして1994年に設置されました。彫刻家・田中彰さんの作品です。

【イ3】旧香里ケ丘支所のベンチ

旧香里ケ丘支所は、戦時中の「香里製造所」の建物(安瓦薬の化成・混和・填実室)を使っていましたが、2007年に建替えられました、。
建て替えに際し市民の要望で、当時のベンチが残されることになりました。そして現在の香里ケ丘支所内で利用されています。

【イ6】保坂小児クリニック

戦時中に、「香里製造所 第2工場 旧安瓦薬収函室(火薬倉庫)」として、使用されていた建物が、昭和39年に日本初の「医療機関併設型保育室」として開設され、現在も「保坂小児クリニック」として利用されています。

香里製造所からきた愛宕社

昭和17年に京都の愛宕神社から勧請されて「愛宕社」として、陸軍省香里火薬製造所内に「愛宕社」が新設されました。4月16日愛宕神社滝本社司により、枚方町と香里製造所幹部同席で御分霊、17日 氏神春日神社へ一時奉安後、香里製造所内へ、御鎮座祭執行、18日御分霊奉祝祭執行となったそうです。

「愛宕社」は、香里製造所全体のほぼ真ん中。今の枚方市立香里ヶ丘図書館の道を隔てた西方の小高い丘の上にあった。愛宕社の下に階段があり、続いて南側に広びろとした運動場があったようです。
 昭和21年、米軍から破壊命令が出ますが、茄子作地区の住民により夜中に密かに春日神社(ふるさと枚方発見 枚方の神社)に遷座されたそうです。

愛宕社跡には、今でも参道の石段が残っています。その愛宕社跡に、建物が建てられましたが、2023年3月27日正午ごろ、火事が発生し、火元とみられる3階の1部屋と、4階の2部屋が焼け、70代の男性が3階のベランダから下に落ちたとみられ、死亡したそうです。

香里製造所からきた児童館・図書館

また、茄子作の旧枚方市立図書館茄子作分室(児童館・図書館)は、元香里製造所の弾薬倉庫であったそうです。当時あまりなかった公民館兼作業場として利用するため払い下げを受けた。待望の施設であったので、移築は茄子作総出で、元の建物を解体して牛車で運び、みんなで整地、組み立てをしたそうです。建物は、二棟の建物を一棟にしたものだそうです。

香里~星田軍用側線

 明治31年に、四条畷・長尾間に関西鉄道として開通。明治40年、国鉄に編入され、関西本線の支線、片町線になった。
 昭和16年9月21日、星田駅から「旧陸軍香里火薬製造所」へ通じる陸軍専用鉄道(3,845m)が開通。軍需品の輸送や工員の通勤に利用された。
 昭和19年10月、列車の回数も減り、金属回収のため、星田駅の待合所も一部撤去された。昭和23年10月頃、香里側線は撤去された。
 枚方市史資料室所蔵の昭和37年の地図では、引込線はまだ道路にはなっておらず、昭和41年、43年頃に一部道路化、45年にはほぼ現状通りとなっており、その一部は「香里平和ロード」と名付けられている。

参考資料・ブログなど

枚方市企画調査室 1981年8月<改訂版>発行「戦争と枚方 平和の日制定記念」

http://nasuzukuri.cocolog-nifty.com/blog/69.html(いま平和のなかで:たーちゃんのブログ)

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-10.html(東京第2陸軍造兵廠 香里製造所:『大日本者神国也』

katano-kyoso.gr.jp/WOR/wor.html(交野の戦争遺産)

 

 

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