枚方の名勝(第13回)枚方の街を創った京阪電車

第13回『枚方の街を創った京阪電車』

2003年7月8・11日(16日追加取材)

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路線免許出願から今年で100年

 京と難波を結ぶ京街道は、人と物資を運ぶ主要道として古来から栄えた。しかしゆたかに流れる淀川がその役割を担い、江戸時代からの三十石舟、明治維新以降は蒸気機関で動く外輪船がその役割を果たしていた。
 明治9年には淀川右岸(大阪-四条大宮)に官営の鉄道が開設されたが、駅数も少なく、運賃も鉄道27銭、船は上り12銭、下り10銭と蒸気船はまだ幅を効かしていた。

 京阪間(左岸)の鉄道事業の将来性に着目した東西の政財界(東京の渋沢栄一や関西の村野山人、松本重太郎)から、高麗橋-五条大橋間の鉄道敷設路線出願が畿内電気鉄道として明治36年11月9日に免許申請された。
 ちょうど100年前のことである。明治39年8月には免許が下り、京阪電気鉄道株式会社と社名改称、一般運輸業の他に電力供給事業・同関連事業を兼営することも決め、11月に新会社が創立された。

天満橋-五条間を一気に開通

 高麗橋(北浜)からの開通を予定していたが、大阪市電の反対があり天満橋へと後退した。京都側も塩小路から順次延長も考えたが、疎水堤防を拡幅して敷設することで五条終点が実現した。
 また、当時は軌道条例があり『軌道は道路交通の補助機関であり、道路上に敷設することを原則とする』という発想から街道筋の上を通る軌道が多く、道路に並行して設置されたためカーブが多い路線となった。

 木津川・宇治川の橋梁などの難工事も多かったが、明治43年3月には全軌道46.57Kmが完成した。一方車両建造は大阪市との市電相互乗り入れの契約から、長さ15.55m、幅2.59m、高さ2.89mと決められ、川崎造船所と日本車両に15台ずつ発注イギリスから電動機などの主要部品が到着、1両編成の木製ボギー電動車1形車両が30両完成した。

30駅、40銭で新規開通

 明治43年1月と2月には大阪と京都府の認可を得て30駅の設置が決まった。また運賃は当初35銭が予定されたが、官線が40銭であったため同額とし8区に分け1区5銭となった。
 4月1日の開業を予定していたが、守口変電所の変圧器試験ミスで故障焼損し修理する事故があり、15日の開通となった。

 当日は天満橋、香里、枚方、中書島、五条の各駅にはアーチが立てられ、紅白の布が駅や橋脚に巻かれ、花電車が走るなど華々しい演出がされた。4000名の無料招待者や3日間の半額割引などもあり、早朝から乗客が詰め掛け乗車券も買えないほどの賑わいとなった。しかし開業当日に野田橋での脱線、停電事故まであり、関係者にとっては大変な開業日となったようだ。

守口町・枚方町に電力を供給

 当時は電車を走らせるような大電力の供給は自家発電しかなく、京阪も毛馬に発電所を建設、守口、枚方、伏見の変電所に送電された。昼間は電鉄に使う電力を、余裕が出来る夜間は一般家庭に供給することにし、明治44年には森小路-香里間の守口町、年末には枚方町にも供給、翌年には城北、清水、榎並などに拡大した。
 大正元年には攝津電気を買収し淀川右岸の高槻から千里、豊能郡、西成郡など計27ヶ町村に拡大した。

 その後、安威川水力電気の合併で電気供給事業は淀川両岸の9郡、9町、73ヶ村に及んだ。木曽川電気興業との大阪送電の設立(大正7年)、日本水力との大同電力の設立(大正7)、和歌山水力電気(大正11)・日高川水力電気(大正15)との合併など中部、北陸、近畿一円に電力事業が広がった。
 その後、工業の発展で電力事業は拡大して行くが、太平洋戦争の激化により国家総動員法がS13年に設立、S16年には全国9地域に電力事業が統合になり、近畿には関西配電が出来て、京阪も事業収入の31.5%を占めていた電気事業を、設備、人員共に供出し、手放すことになった。

100年の伝統を受け継ぐ菊人形と観光事業

 京阪電車の観光事業として、香里園の友呂岐神社を中心に明治42年、9万3,000㎡の用地を入手、桜、楓、梅、菖蒲などをを植え、香里遊園地を造ったがシーズン以外は人気がなかった。そこで鉄道開設記念に併せて、東京両国国技館で好評を得ていた「菊人形」を名古屋の黄花園と契約してスタートした。(明治43年)
 しかし香里遊園地は住宅用地として販売することになり、明治45年から枚方駅(現枚方公園)に1万㎡の用地を買収し移転、岐阜菊楽園の浅野善吉氏など人形師の活躍によって常設館として全国的に有名になった。
(詳細については第2回枚方発見伝統の職人芸『枚方菊人形』を参照ください)

 その後枚方公園は、遊園地として整備、戦時中は菊人形館は軍需資材に公園は農地として供用、戦後14万5,200㎡にあらためて施設拡充(S24)、大バラ園(S30)、その後も近代遊具を設置、H8年にはリニューアルして「ひらぱー」として若者にも大人気の公園になった。
 京阪は、T11年寝屋川に5万㎡の用地を入手、運動場前駅まで開設、本格的な京阪グランドを開設した。その他の観光事業としては、男山ケーブル(T15)  琵琶湖汽船の合併(S4)、天満橋に京阪デパート設立(S7)、京阪スーパーマーケット(S27)、樟葉パブリックゴルフクラブ(S32)、比叡山ドライブウイ(S33)など多くの事業がある。

高架複々線の導入など安全快適な輸送への努力

 創業当初からの車両1形は1両編成で全線2両編成になるのは、昭和元年に入ってからである。当初は普通列車のみで、天満橋-五条間の所要時間は、100分かかっていた。大正3年ノンストップ急行を終電後に走らせる試みがされ、60分で走った。
 大正4年には、日本で初めて色灯三位式自動信号機を導入設置、翌4年から1日4便上下線同時に運行の急行列車が導入され(途中7駅停車70分)、ノンストップ列車は最急行列車に変更された(大正5)。
 京都の終点を三条にすることには、京都市電の反対もあり長引いていたが、疎水堤防上を拡幅利用して大正4年10月に開通、京津電鉄と連絡し琵琶湖に抜けられるようになった。
 蒲生-守口間の七曲の路線を直線化し、複々線化が計画されたが地盤が悪く高架でないと困難なことから、一気に複々線高架の大工事を決定、S2年申請、S3-S8年にかけて順次開通した。当時この方式は、国鉄中央線でのみ導入されていた画期的なもので、その後S57年には寝屋川信号所まで延長され民間最長の高架複々線として大量輸送時代にに大きな役割を果たした。

 京阪の車両では、全鋼製のロマンスカーの誕生(S2) 、S27年大阪でNHKTVの実用試験放送が開始され、一般家庭にTVが普及していない時代に京阪特急にテレビカー登場(S29)等が話題になった。S41年蒲生信号所付近で普通列車と急行との衝突事故が発生、多数の負傷者を出した。この経験から、ATS(自動列車停止装置の全線導入で万全を期すことになった(S43/9)。
 路線では宇治支線・中書島~宇治開業(T2)、京津電気軌道を合併(T14)、信貴生駒電鉄・枚方東口~私市間開通(S4)譲受(S20)、天満橋-野江複々線建設(S45/11竣工)などがある。京阪の開設以来の念願だった天満橋-淀屋橋地下延長線は、シールド工法でS35年着工、S38年に完成、大阪地下鉄乗り継ぎの旅客が50%を占め市内交通の緩和に大きく貢献した。その後も、東福寺-三条間地下化工事完成(S62)、鴨東線・三条-出町柳間が開通し叡山電鉄と連絡した(H元)。
 2003年から中之島新線整備事業が起工され、天満橋と、中之島西端の玉江橋を結ぶ延長2.9kmの新線が2008年の完成予定によって、鉄道空白地帯の解消、中之島西部地区再開発の促進、大阪経済の活性化にも大きく寄与することが期待されています。

京阪と阪急、新京阪鉄道の設立

 国鉄と競合する淀川西岸線の認可が、京阪電鉄に影響が大きいとのことから京阪も参加する、新京阪鉄道に下りた(T11)。北大阪急行を買収していた新京阪は下新庄-京都西院間に淀川左岸の鉄道経験を活かした新線をS3年6月に全線開通させた。(現阪急京都線) その後、新京阪鉄道と京阪鉄道が合併し、巨大な京阪間の私鉄が誕生した(S5)。

 しかし、戦時の総動員法のもと陸上交通事業調整法で政府の方針により阪神急行電鉄(阪急)と合併し京阪神急行電鉄に統合された(S17)。戦後の過度経済集中排除法への対応や、独自の地域性を活かした事業の発展のため京阪電気鉄道がふたたび分離設立され(S24/11/25)、本社を天満橋、本店は枚方市大字岡に置いて事業活動が継続されることになった。

昔の枚方市駅南口
昔の枚方市駅北口、ボンネットバスが見える
明治40年竣工した毛馬発電所、ここから守口・枚方・伏見の変電所に送電され余剰電力は森小路-香里間の守口町の家庭にも供給された
昭和8年蒲生-守口間に画期的な高架複々線が完成し、七曲の線路から直線になった
蒲生-守口間の高架複々線を走る列車
京阪創業以来悲願の淀屋橋乗り入れ予定路線(1836mの地下路線)
悲願の淀屋橋延長線の発車式(S38.4.15)
天満橋-野江間の高架複々線に併せて新京橋駅が誕生、片町駅は姿を消し、京阪ショッピングモールが開店した(S45)
東京両国国技館で好評を得ていた「菊人形」を名古屋の黄花園と契約してスタート

交野線の高架複線工事が終了しH5年に完成した枚方市駅南口ロータリー
現在の枚方市駅北口ロータリー、ラポール枚方やメセナに近い
明治43年4月15日開業当時の天満橋駅花電車や花火の打ち上げなど各地で祝賀ムードを盛り上げた
イギリスから電動機などの主要部品が到着、1両編成の木製ボギー電動車1形車両が30両完成
開業時は30駅、官線が40銭であったため同額とし8区に分け1区5銭となった
香里遊園地で電車開通に合わせて開催された第1回菊人形のアーチ
現在も使われている1500形の列車
昭和46年登場以来、長く使われている3000形の特急列車
一般家庭にTVが普及していない時代に京阪特急にテレビカー登場(S29)

京阪のまちづくり

 京阪は新京阪時代に新京阪沿線の宅地開発を手がけていたが、京阪沿線では、宇治、香里、森小路、牧野など、比較的小規模なものが多かった。S33年に完成した日本住宅公団の第1号の東洋一のニュータウン『香里団地』建設への協力の経験を活かして『くずはローズタウン』の建設に取り組んだ。
(香里団地については、第3回枚方発見『進化する香里団地』を参照ください。)

 昭和35年春京阪電鉄は、沿線開発の一環として、八幡町の丘陵地帯へ住宅団地を誘致することで京都府八幡町(現八幡市)と意見が一致し、日本住宅公団に対して住宅団地誘致の申し入れを行った。公団側は進出条件として丘陵地帯までのバス路線乗り入れの条件を付けた。これを受けて京阪電鉄で検討した結果、アクセス道路の整備費を賄うためにも、京阪独自で同丘陵地帯に約50万㎡の住宅開発を煮詰めることが必要となった。
 この計画検討が、「くずはローズタウン」誕生の発端となり、約136万㎡の大ニュータウン造成計画となった。この地区の開発には、3つの整備が以降の街の発展において大きな役割を果たすことになる。
①京阪電鉄と日本住宅公団の要望によって作成された都市計画学会のマスタープラン(S39)に基づく街路・公園及び公共下水道の整備
②駅移転と駅前広場、バス路線網等の交通ネットワークの整備
③大型商業施設を含む「くずはモール街」の整備

 日本で初の広域型の公園風のショッピングセンターを建設し、「くずはモール街」と命名してS47年4月に開業した。下図に示すように、デパート(松坂屋)とスーパ(ダイエー、イズミヤ)を核として70店の専門店と銀行などを有機的に組み合わせ、1,500台以上の駐車場を備えた本格的広域型ショッピングセンターを建設した。
 地域社会への奉仕として体育、文化教室、図書館の3部門からなる京阪・くずは体育文化センターを建設、その基本的な考えは、快適な生活環境の必要性のほかに、従来の新興住宅開発によくみられる地域住民間のコミュニティー阻害をできる限りなくし、文化・スポーツを通じて豊かな人間生活を創り出すことにあった。
 街路については、幹線道路を約30m、細街路を約8mで整備した。下水道は分流式を採用した。公園については、1万㎡の樟葉中央公園を中心に 各区に計14の公園を整備した。このように「くずは地区」の開発は、法が未整備の段階において、計画段階から官民協力して街づくりを進めた点に大きな意義があり、後の官民一体のニュータウン建設に対して一つの方向性を示したことが大きく評価された。
 この様に100年の歴史を重ねてきた京阪電鉄は、この枚方の町の唯一の足であり、また多くの住空間とまちづくりに寄与し、 観光や娯楽の提供、教育の場の誘致など、まさに枚方市を作ってきた最大の功労者、生みの親であるあるといえます。

くずはタワーシティの立地は樟葉駅、モール街に隣接し最高の環境
京阪・くずは体育文化センターを併設した現在の樟葉駅
この12月に完成する「くずはタワー」が見える、くずは駅前モール街
日本で初の広域型の公園風ショッピングセンターを建設、「くずはモール街」と命名してS47年4月に開業
2004年春から仮店舗に移転し1年後にはリニューアルする予定のくずはモール街
ローズタウンの公園は、1万㎡の樟葉中央公園を中心に各区に計14の公園を整備
東公園の横に関西医大男山病院が誘致された
閑静な楠葉朝日の住宅街、街路は幹線道路を約30m、細街路を約8mで整備
くずはタワーの夕焼け(京阪提供イメージ図)
タワー棟は高さ136.8m、41階、ランドマークタワーとして沿線のシンボルとなる(京阪提供イメージ図)
くずはタワーから見た夜景と花火(京阪提供のイメージ図)
低湿地農地だった楠葉を官民一体で開発夢の『ローズタウン』への造成が始まった(S43第1次分譲開始)
松坂屋デパートとダイエー、イズミヤを核として70店の専門店と銀行などを有機的に組み合わせ、1,500台以上の駐車場を備えた本格的広域型ショッピングセンターを建設(S47年4月竣工)
「くずはローズタウン」の概要図、日本住宅公団男山団地誘致がきっかけになった
ローズタウン開発前の土地利用現況図、低湿農地と原野が広がっていた
「くずはローズタウン」約136万㎡造成の土地利用計画

取材にあたっては、京阪電鉄の社史、同社資料室から貴重な資料をお借りしました。
<リポーター:鬼頭・中西・日垣・岸本・冨田 HP作成:冨田 WP編集:冨松>

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