第11回『枚方の母なる川・淀川』
2002年12月8・18日 取材
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枚方の母なる川・淀川
日本最大の湖、琵琶湖に源を発する淀川は、滋賀県で瀬田川、京都府では宇治川と通称され、京都・大阪府境の山崎の狭隘部で桂川・木津川の大支流をあわせ、大阪府北部を南西に貫き大阪湾に注ぐ、琵琶湖から流れ出る唯一の川で、全長75km、流域面積8528平方kmの一級河川です。
流域は支川を辿ると奈良県や三重県にも及び近畿の1/4を占めています。流域人口は約1,070万人にも及び、近畿圏の社会、経済、文化の発展に欠かせない役割を果たし、古来より灌漑・舟運・飲料水に広く利用されてきました。
平城京、平安京、難波宮などの古代都市は、建築資材や物資などの輸送を河川舟運に頼っていたため、淀川水系沿いに建設されています。京・大阪の中間に位置する枚方は、淀川によって創られた町、淀川の舟運によって発展した枚方宿を始め、現在も、私たちの身体の70%を占める飲料水のほとんどを淀川に依存し、淀川の水によって生かされているといっても過言ではありません。枚方市は淀川に11.5kmも接し、淀川に直接そそぐ船橋川、穂谷川、天野川という三つの支川を持っている唯一の町です。今回のふるさと発見はそんな母なる川・淀川を取材してみました。
淀川の自然
淀川にはワンドと呼ばれる人工の大きな水たまりが約30あり、これは川底に沈めた水制で囲まれたところに土や砂が積もり、その上に木や草が生い茂ってできたものです。流れがなく、魚の産卵には絶好の場所となり、天然記念物のイタセンパラやアユモドキをはじめ数多くの魚がすんでいます。また、希少なエサキアメンボや、限られたワンドにのみ繁殖するヤガミスゲなどの貴重な水生生物の宝庫となっています。
またコサギや、枚方市の鳥に指定されたカワセミなどの水鳥もも時折姿を見せます。 このかけがえのない環境を守るため、水生生物の調査を行う新しいワンドをつくったり、流域住民の協力により清掃を行う「ワンドクリーン大作戦」を展開したりしています。
河川では、魚類や植物、鳥類などの生息環境を守り育てることを優先させた護岸工事が行われています。①瀬や淵をつくる。②木や石を使用し、変化のある水際をつくる。③護岸表面を土で覆い緑化を図る。④魚の移動を考えた落差工をつくる。などの工事です。枚方市域にも天野川河口の水質浄化設備や磯島周辺の酸化池などの事業が行われています。
自然豊かな河川敷内には、淀川の壮大な景観を誇る日本初の国営河川公園(枚方水辺公園、太間河川公園など)があり、大阪市内から京都府まで続く敷地は、なんと180万平方メートルあり、災害時の大規模避難所としてや、総合防災訓練、枚方祭りなど数々のイベントが行われます。また児童公園、ゴルフ場、球技場なども整備され、サッカーや野球をする人々で賑わいます。また大型のワンドや岸辺にはバードウォチングをする人々や多くの釣り人が竿をたれ、整備された堤防上や河川敷内の遊歩道には散歩やランニングを楽しむ人々が絶えません。
淀川の水害と治水
日本の河川は、世界平均の2倍の雨、季節的な集中豪雨、川が急勾配なことから、多くの洪水に悩まされています。淀川沿川流域は、古くから日本史の中心舞台でもあり、今も数多くの名所旧跡が残されています。河内、浪速の平野は、太古より淀川が運ぶ土砂によって次第に広まり、肥沃な大地となって今日の大阪平野が作られたことを古図が示しています。
◇茨田堤
淀川治水工事の歴史は古く、日本で初めての堤防と言われる「茨田堤」は『日本書紀』には、仁徳天皇11年(324)に造られたと記されています。仁徳天皇は、淀川の氾濫から難波宮を守るとともに、安全な農地を確保しようと考えます。築堤は、国家的大事業として多大な費用と労力を投じて進められていきましたが、洪水による2カ所の切れ目がどうしても繋がりません。すると天皇は夢でお告げを受けます。「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)の二人を川の神に供えれば、堤はできあがるだろう」と。衫子は奇知を巡らし助かりますが、強頸は人柱となりました。 このような民話に残された苦難を乗り越えて、堤防は仁徳天皇時代に遂に完成します。
堤防は地名をとって「茨田堤」、また難所であった2カ所の切れ目は「絶間(たえま)」と呼ばれました。現在、寝屋川市にある地名「太間(たいま)」は「絶間」がなまったものといわれています。 茨田堤の正確な場所は、現在も断定されていませんが、寝屋川市内を流れる古川に沿った住宅地の中の細い道がその一部ではないかともいわれており、太間の淀川堤防上には記念碑も建てられています。
◇文禄堤
豊臣秀吉が枚方から長柄にいたる連続した堤防「文禄堤」を築かせて、大阪平野と淀川との分離に成功し、これに沿って大阪と京都を結ぶ主要交通路として賑わった美しい松並木の「京街道」と「枚方宿」の繁栄の風景が生まれました。その後も宝永元年(1704)の大和川の付替え等数多くの事業が行われました。
◇享和2年の大洪水
淀川は古くより人々に大きな恵みを与えた反面、大きな災害ももたらしてきました。史実に残る淀川の洪水は、古くは推古天皇(554~628年)の時代より現在までに250回以上、実際にはその何倍にも上ると推定されます。中でも特に被害が大きく、貴重な記録『榎並八箇洪水記』も残されている享和2年(1802)7月の洪水では、淀川左岸の交野郡楠葉村や茨田郡仁和寺村などの堤防が決壊したため、東は葛城山脈のふもとから南は八尾久宝寺平野郷まで水に浸かりました。また右岸の摂津国島上郡では堤防が約500mにわたって決壊し、摂津国西成郡でも11カ所・合計約450mの堤防が被害を受け、堂島、中之島付近は約7mの水の底に沈みました。
◇オランダ人技師による淀川修築工事
明治初頭、河川と港湾を再生するために明治政府は、指導者として当時水工技術に最も優れていたオランダから土木技術者を招きます。明治6年に来日したオランダの土木技術者、デ・レーケは早速淀川の測量に従事し、翌年には淀川水系各地の砂防工事の指導を行い、河川改修に努めます。また淀川修築工事にも着手し、常に安定した川幅と水深を維持するために水流の速さや向きを調節するために、本流に対してほぼ直角に木の束や石などを積んだ水制工法を用いて修築工事は明治22年に竣工し、水深1.5mの航路ができあがりました。この「ケレップ水制」の周辺には土砂が堆積し、のちに大小の入り江や池などを形成する「ワンド」となり、今でも淀川で名残が見られます。
◇近年の水害
明治18年(1885)6月、淀川左岸岡新町村の支川、天野川堤防が決壊するとともに、伊加賀村の淀川堤防も決壊した『明治大洪水』、大正6年9月下旬の 『大塚切れ 』、昭和に入っても昭和25年9月3日の『ジェーン台風』、『昭和28年台風13号』、『昭和36年第2室戸台風』による高潮被害など淀川治水との闘いはその後も続いています。
◇スーパー堤防
今日では大都市の洪水による被害を未然に防ぐために行われている治水事業として、スーパー堤防の整備が進んでいます。堤防から市街地側の土地を、堤防の高さの約30倍の幅のところまで盛土をして、ゆるやかな台地のような地形にするものです。これによって、計画規模を越えるような大洪水の際にも、あふれた水は幅の広い堤防の表面をゆるやかに流れ、堤防自体が壊れることはありません。また、軟弱地盤を改良するため、地震にも強い堤防なのです。
枚方市伊加賀西地区には、面積約9ha、整備延長約850m のスーパー堤防があります。このスーパー堤防上には高層の分譲マンションが建設され、緑と光あふれる安全で良好な新しい住宅街と、松並木の美しい「京街道」が復元・整備されつつあり、現況の河川公園と一体となって、住民の憩いの場となるような整備が進められています。
淀川の舟運 (三十石舟、蒸気船、渡し)
淀川の舟運の歴史は古く、古事記や日本書紀にも書かれているほどで、平安時代には、京都に住む公家たちが、淀川沿川はもちろん須磨や明石などに向かう交通として利用していました。貿易や資材の運搬など淀川の舟運によって発展した枚方には、大阪と京都を行き来した「三十石船」や、枚方辺りで乗客に飲食物を売った「くらわんか船」などがあり、江戸時代の淀川を賑わせた代表的な船でした。長さ17m、幅2.5m、定員28名、船頭4名の三十石舟は、明治の初めまで長く淀川舟運の主役を務めました。
水車のような羽根車を回転させて進む外輪船。大きいものでは、約300人の乗客を乗せて淀川を航行していました。外輪船が登場したのは明治時代初めのこと。黒煙を吐きながら航行する外輪船の姿は、道行く人の話題をさらったとか。大阪と伏見を結ぶ主要な交通手段として大活躍しました。淀川汽船会社に統合された蒸気船は、13隻もの船団をくんで航行し淀川舟運の全盛時代を築きました。
明治43年4月に京阪電車が開通し、大正時代以降は衰退の一途をたどります。スピードがあり、発着時間の正確な鉄道に乗客を奪われた外輪船は、貨物輸送にその姿を残すのみとなり、太平洋戦争後には姿を消してしまいました。
そして淀川に最後に残されたのは、小さな渡し船だけになりました。樟葉の渡し、下島の渡し、枚方渡し、出口の渡しなど数ヶ所の渡船場がありました。最もよく使われたのは枚方の渡しで、明治45年に枚方遊郭の営業が始まると新地渡しも設けられ繁盛しました。渡し船が唯一の船になった淀川に、昭和5年、長さ694mの枚方大橋が出来ると枚方渡しが廃止され、最後に残った樟葉の渡しもやがて姿を消し、淀川中流には船の姿は見られなくなってしまいました。
現在、淀川でも物流や緊急時利用を可能とするため、新たに船着場の設置などの整備が進められています。環境にソフトな淀川水系を利用した大阪-京都-大津間(大阪湾-淀川-宇治川-琵琶湖-大津)約67㎞を河川舟運を再興させ、車一辺倒だった交通体系に水上交通を取り入れることで「陸の道」と「水の道」の融合を計り、環境・エネルギー・防災対応の交通システムが提案されています。
<リポーター:鬼頭・梅原・中西・冨松・冨田 HP作成:冨田 WP編集:冨松>