第1回『東海道56次 枚方宿』
2001年09月17日 取材
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豊臣秀吉が大阪城と伏見城をつなぐ交通路として文禄堤(1596 文禄5年)を築かせ、これが京街道と呼ばれるようになりました。また秀吉の重臣・本多内膳正政康が枚方を領有していた時、枚方城の城下町として始まり1615年の大阪城落城とともに本多家が滅亡、廃城となり枚方は宿場町へと変貌していきました。
徳川家康が岡新町・岡・三矢・泥町の四ヶ村を枚方宿と定め、人足百人、馬百頭を常備することを義務づけ、宿中央には、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋・高札場が設置されました。宿は東西(1447m)平均幅(4.5m)の往還道を中心にその両側に旅籠や茶屋・煮売家などの商店・民家が378軒も並び、休泊施設や人馬継立では東海道屈指の宿場町として発展してゆきました。
中でも紀州藩徳川家の参勤交代は、貝塚を経て2泊目で枚方宿を使用、専用本陣を設けるなど、武士の数だけでも1500人を超え、枚方宿を通る大名行列の中では最大の規模でした。
枚方宿の発展を支えたのが最盛期には1000艘の舟が行き交った淀川舟運です。大消費地の京と天下の台所・大阪を結ぶ生活物資の輸送は三十石船が使われ、枚方宿の船着き場は大変賑わいました。三十石船には幕府から通行料免除の関所手形を受けた「過書船」と対抗する「伏見船」があり、枚方宿泥町にはそれぞれを監視する船番所がありました。
三十石舟は京からの下りは三時間と早いため乗船も多く、この舟に小舟でこぎ寄せて「酒くらわんか、餅くらわんか、ごんぼ汁くらわんか」と売りつけたのが、「くらわんか船」で浮世絵師・安藤広重の版画に描かれるほど枚方の名物になりました。堤町を中心に発達した船宿の一つ「鍵屋」が復元され市の資料館として7/3にオープンしました。(鍵屋資料館 中島三佳様の研究を参考にさせていただきました。)
今回はこの鍵屋をスタートに宿の西見附跡から京に向かって東見附・天の川に架かる鵲橋迄を取材し今日の枚方市発展のルーツをたどってみました。
<リポーター:石田・冨田 HP作成:冨田 WP編集:櫻田>