”培った組織力を地域の人々へ”
枚方市香里ヶ丘12丁目在住
2018年7月11日 取材
1.プロフィール
[生い立ち]
1939年(昭和14年)大阪市淀川区西中島南方に生まれ、大戦のさなか、島根県の遠縁を頼り母子で疎開。
1945年(昭和20年)黒松村国民学校に入学。
戦後まもなく疎開先から帰阪するも、大阪の実家は空襲で焼失しており八尾市に移住。
1954年(昭和29年)八尾市立龍華中学校を無事卒業。
[就業と学業の両立]
1954年(昭和29年)松下電器入社、第一事業部研究課(無線研究所の前身)に配属される。
仕事の傍ら、定時制の府立今宮工業高校機械科を経て、市立都島工業高校電気科を1958年(昭和33年)業務と学業を重ね見事卒業。(注:当時は午後4時が定時)
1959年(昭和34年)セラミックコンデンサは部品事業部に移管され、宮崎松下(九松の子会社)の立ち上げと続き、それらの業務推進力と指導力を買われ、1965年(昭和40年)には部品支部執行委員に選出され、この時期をもって
組合活動の幕開けとなる。
注:詳しくは”My historyプロフィール”にLINKしてください。
[組合活動に専従]
1967年(昭和42年)に現業を離れ、松下労組の専従となる。
1972年(昭和47年)中央執行委員就任に始まり、1984年(昭和59年)労組本部書記長退任まで、”対立と調和”の中で松下電器発展の一翼を担った功績は大きい。多くの組合員に支えられながら三度の病と闘い、18年余りの組合活動は偉大なものであった。
注:詳しくは”My history労働組合活動”にLINKしてください。
[現業復帰]
1984年(昭和59年)松下電子部品・コンデンサ(事)に復帰され、後に部品全社の管理・営業の要職を歴任。
1999年(平成11年)在職44年10ヶ月・満60歳をもって、松下電器(現パナソニック)を定年退職。
2.定年後の社会貢献
[地域に貢献]
退職を機に年度替わりには早くも町内の自治会”香里ヶ丘12丁目自治会長”に推挙され、地域社会の貢献が始まる。当時、市南部の市民センタ設置が具体化されつつあり、ワークショップ委員となり、その設計案を纏め実現を果たすことになった。団地貯水場跡地利用の誇らしき姿(現:南部生涯学習市民センター)に生まれ変わったのである。
2001年(平成13年)町内自治会長退任を機に香陽コミュニティ協議会副会長に就任する。かねてから考えていた
①ややもすると消えゆく、”時代を繋ぐ地域の絆づくり”
(例:とんど焼き、けんぎゅう祭、敬老の集い、体育祭)
②地域の”安全を守る活動”の活発化
(例:自主防災会設立、香陽見守り隊、おはよう会、安全監視ボランティア、防犯パトロール)
③”地域福祉の場づくり”
(例:福祉のまちづくり、高齢者向けサロン、子育てサロン)
④広報活動として”香陽コミュニティ便り「香陽」” 年6回発行
⑤土曜日休校制実施に伴う、世代間交流(小学生と大人の交流)
(例:サタディあい、芋堀り交流会、昔あそび、絵手紙交流会、給食交流会)
など、行政、学校、PTAを巻き込んだ活動を行い、2007年(平成19年)には、香陽コミュニティ協議会会長として、ますます活発化させた。それら長年の功績により、2017年(平成29年)には、塩崎厚労大臣より「民生委員永年活動特別表彰」を授与され、続けて2018年(平成30年)には枚方市長より「永年ボランティア活動」に対し表彰される。2017年(平成29年)には後進に道を譲り、顧問として指導を継続中。
注:詳しくは”冨田朝己のMy history地域貢献”にLINKしてください。
[松愛会活動]
退職OBへの活動として
①地区委員(現:支部役員)を4年
②本部HP委員も同時に兼ねる
③支部同好会”くらわん会(歩こう会)”のHP担当世話役を務め、
主に、”HP基盤確立の祖”として多忙な日々の中での活躍ぶりはめざましい。
注:詳しくは”冨田朝己のMy history松愛会活動”にLINKしてください。
3.これからの思い
この地域での職域OB会としての松愛会枚方南支部の活動は素晴らしい。多くの企業の卒業者にそんな活躍の場「居場所」があるとは限らない。しかし所詮、いざというときの安全・安心を守るのは地域力=地域の絆。「遠くの知人より近くの他人」行政などの力だけでは生きてはいけない。
ぜひリーダーシップと技術を持ったPanasonic出身のリーダが地域の牽引力になって、高齢者の居場所づくり、地域の活力になって欲しい。
<取材:梅原、吉川、徳田、中溝、中村、HP作成:梅原、WP編集:中溝>
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