2017年7月 蔭山 淳
◆生い立ち
- 大正14年(1925年)9月21日
- 丹波(現:亀山市)に生まれる。
- 昭和9年(1934年)
- 小学3年から剣道を習う一方、「兎追いしあの山、小鮒つりしかの川」通りの生活に浸っていた。
- 昭和13年(1938年)
- 丹波・園部中学校(旧制)に進学。
- 昭和16年(1941年)
- 陸軍経理学校(東京都小平町)に進学、経理部士官候補生の道を歩んだが、広島に投下された爆弾が、卒業前の経理学校生徒の軍籍解除となった。
- 昭和20年(1945年)
- これからは英語の社会になると教えられ、同志社大学へ入学。
- 卒業直前に胸の病を患い、闘病生活3年、リハビリ1年を経て大学院に入り、勉学に励む。
- 昭和30年(1955年)
- フルブライト奨学金を得てアメリカ・オレゴン大学院へ留学、ニューヨーク大学院での研究後(経営学修士号)MBAを得て帰国(1958)
◆職歴
- 昭和33年(1958年)
- 就活5社中、松下電器貿易に採用が決まり、企画部に配属される。
- ・余力を利用して松下電器産業・国内販売組織のMarketing手法の研究を行う。
- ・その成果を社内誌に投稿、初年度は入賞を逸したが、2年目には「優秀賞」を受賞。
- ・同時期、放出のモータ関連事業部で役職者に対し英会話の補習を委託された。
◆職歴(イラン編)
- 昭和42年(1967年)
- 松貿社長に同伴して中近東、アフリカへ初の海外出張。これがイラン出向の先駆けとなる。
- 昭和43年(1968年)
- イランの販売代理店を中心に、National製品の販売網確立へと進む。
- ラジオ、テレビ、後に炊飯器、掃除機などの家電商品も現地生産を立ち上げ、寿電機の赤外線コタツの輸出も手掛ける
- 昭和55年(1980年)
- イランの宗教革命により、工場の生産、販売共に終焉を迎える。
- 昭和57年(1982年)
- 社長室長を拝命。
◆職歴(アメリカ編)
- 昭和59年(1984年)
- 松下寿電子工業へ転籍。社長室付。
- 昭和61年(1986年)
- アメリカ寿電子工業社長。アメリカ・ワシントン州、バンクーバー市に工場を設立。テレビ生産に続き、テレビとビデオの一体型生産を開始。日米関係が最悪の状態の中でも、知事さん、市長さん、短大の学長、市民の協力のお陰で順調に生産を続ける事ができた。
◆日米親善(感謝の意)…桜の植樹
街をあげての協力にどう感謝の意を示そうかと考えていたところ、1990年はワシントン州創立100周年に当ると分かったので、私は私財を投じ100本の桜を寄付する事に決意。1990年4月11日のArbor day(植樹祭の日)に街を挙げての植樹が行われた。以来この桜は、街の憩いの場として名所となっている。
この頃、日本に厳しく当っておられた米国通商代表部の Carla Hills 大使にお誉めをいただき非常に驚いた。
その理由は「日本の言い訳をするより、アメリカの輸出業者の努力を褒めた」からだそうです。
平成4年(1992年) 稲井社長が逝去されたので、私もアメリカ寿を退社いたしました。
◆数々の受賞
World Affairs Council of Oregon(世界情勢審議会・オレゴン支部)に日本を代表して奉仕、 オレゴン大学に招かれ1998年まで客員研究員として異文化経営を教えた。その間、大学の理事(アメリカ人以外で初めての就任)。
1997年には大学の最高栄誉賞受賞。(これもアメリカ人以外では初め受賞)。
1992年には日本人として初めてフルブライト賞を受賞。オレゴン州知事、バンクーバー市長、在オレゴン領事館の森山総領事、等々多くの方々から表彰された。 World Affairs Council of Oregonには日本人を代表して奉仕が出来たことも、光栄であったが、稲井さんに喜んで頂けなかったのは残念でありました。
◆アメリカ・ワシントン州の名誉州民に選ばれる
ワシントン州の知事 Booth Gardnerさんは仕事を始めた当時から、多くのご指導を頂きましたが、現在の知事
Robert Insleeさんは私が州の発展に寄与しただけでなく、「両国民の永遠の友情維持に努力した」として、平成28年(2016年)4月21日に、米国ワシントン州の「名誉州民」に選ばれました。
◆若い子供達への英語教育に余命を捧ぐ
病から立ち直り、健康を与えられ無事にお勤めも果たした今日、余命を若い子供達が英語の勉強に困らないように助けることを目指し、「教えるは最高の学び」の箴言(しんげん)を信じ、近くの教会で蔭山流の英語を教えて今年で7年目になる。蔭山の「奉仕学校」である。