”貝塚 裕の写真人生 ファインダーに何かが見える”
枚方市茄子作北町在住
2016年7月26日 取材
1.取材訪問
夏、真っ盛りの中、枚方市茄子作に建つ閑静な住宅地を抜けると茄子作北町の丘陵地帯の一角に、本日登場の貝塚裕さんの自宅が見えて来る。夢中人取材班を早速、書斎に通されいきなり本題の写真の話が始まる。貝塚さんは、高校入学時からカメラに関心を持ち、やがてプロカメラマンとして人生の大半の時間をつぎ込むことになる70年の写真人生を紹介します。
2.貝塚さんのプロフィール
貝塚さんは、昭和7年生まれの84歳。出身は東京生まれの東京育ち。高校に入学と同時に写真クラブ に入部。動機は、お父様所有のカメラが家に有ったから。 当時は学校の暗室で遊んでいたとおっしゃる夢中人。
大学は東京工芸大学(*)に進む。大学では、カメラの原理や写真化学、写真感光材料の研究、写真撮影技術を学ぶ。が貝塚さんは、化(ばけ)学中心の材料科学の方に惹かれたらしい。カメラは、昭和25年頃から国産カメラが各社から多種登場する様になったが、当時は、カメラマンになると言う野望は全く眼中になかったらしい。
昭和30年卒業と同時に、写真用品会社のウエスト電気に就職し宣伝を担当します。昭和31年に松下電器産業と業務提携したウエスト電気から松下に転籍された貝塚さんは、昭和32年に東京営業所の写真営業部門に移籍されます。 担当は、写真用品販売助成、撮影会助成、フラッシュの販売促進等。
昭和33年に先輩から誘そわれ松下本社PR本部、宣伝部写真課に異動になります。ここからカメラマンとしての人生の転機が訪れます。
宣伝部での宣伝用写真の制作担当。広報本部での創業者との出会い。広報写真撮影のために国内に留まらず、世界20数ケ国を飛び廻る貝塚夢中人の苦悩と感動をお届けします。
貝塚さんは、現在も公益社団法人日本広告写真家協会、日本写真芸術学会に所属されています。
また、現役時代を通じて、広告電通賞、凸版カラーフォトコンテスト、月光フォトコンテスト、オリエンタル フォトコンテスト、 鉄鋼5社写真撮影会賞、毎日広告賞、朝日広告賞、婦人倶楽部広告賞など輝かしい受賞歴をお持ちです。
3.活動記録>
◆広告写真の活動期
門真PR本部へ異動直後に宣伝部写真課は、梅田新大ビルに移転になります。 最初の仕事は、スタジオ・暗室・機材の準備等これまで経験したことのないことの連続でした。 いよいよ自分1人で広告写真の制作をスタートします。 しかし本当の試練は牙を剥いて待っていたのです。
宣伝・広告と言ってもその写真制作は想像もつきません。新聞の広告欄、膨大な数の雑誌に目を通すのは勿論、大阪や近郊のスタジオを1軒1軒廻って、 教えを請いながら独学で必要な知識を積み重ねていきます。
担当は、主に新聞、雑誌広告制作です。広告用写真制作は、テレビ、ラジオ、ステレオ、白物家電や電池、部品関連と多岐にわたります。 写真技術に加え、商品の特徴や機能を理解した上で、商品の広告写真としてどう表現するかを決めていきます。
商品の開発者、デザイナー、フォトグラファー、営業部門の意見等の議論を併行して進めながら関係者全員が納得するまで試行錯誤が続きます。 深夜に帰宅することもしばしばであった。
広告写真の撮影には、ライティング、撮影角度、どうやれば美しく撮れるか、などに加えて撮影場所の候補地選びから撮影準備まですべてを担当します。 撮影が終了しても、印刷用の印画現像仕上げ、グラビア、凸版、オフセット用の現像、カラー撮影の色再現などに時間も手間も技術的改良にも心を砕いたと言う。
そんな仕事の連続でも、新聞に雑誌他に掲載され、お客様の目に触れると嬉しかったと同時に、 ほっとした気分に。充実したやる気に満ちたと回想されています。担当した商品は、当時の新聞や雑誌の切り抜きを大切に保存され、私たち取材班にも説明頂いた。今でも一つ一つ記憶されているのがすごい。年齢を感じさせない記憶力です。
◆広報写真の活動期
S45年に12年間担当した広告写真の担当を卒業し、自ら広報写真部門への異動を希望した貝塚さんは、またしても感動の写真家人生を送ることを選択していきます。
一概に広報と言っても広告写真に比べて写真分野が格段に広い。人物、生産、営業、製品などのパブリシティ―用、社内 広報用の撮影、撮影依頼ディレクト、広報映画のプロデュースなど挙げると切りがない。
広報本部での初仕事は、大阪万国博覧会の撮影からスタートした。開幕のテープカットから皇太子殿下ご夫妻のご来館など思い出に残る撮影であった。絶対口外出来ないサプライズも有ったという。
創業者の初ポートレートは、技術本部前で自転車の傍らに立つ創業者の撮影であった。(写真掲載) とても緊張した。予定の撮影が終わると創業者が、自転車に乗り走り始める。慌ててシャッターをきる一幕もあり忘れることのできない宝物である。
程なくして、貝塚さんは創業者専任カメラマンとして、広報写真全般を担当することになる。実に18年間にわたりファインダーから創業者を捉えることになるのである。
国内外への出張に随行、現地での視察や従業員との対話、訪問国政府の表敬訪問と緊張の連続である。国内の出張とて安心はできない。 創業者の予定外の行動にも対応しなければならない。また本社や近隣事業場へのご来客対応である。特に国賓クラスのお客様をお迎えする場合は、胃が痛くなることもあった。
全て撮り直しが効かない撮影であるし、失敗が許されない。撮影が終了しても写真が出来上がるまでは心痛が収まることはない。
どんな撮影条件でも確実に撮影しなければいけない。業務として撮影する喜びを感じる余裕は全くなかった。出来て当たり前、しいて言えば完成した時、ほっとする安堵感だけである。
創業者とは300件以上の案件の撮影を行ない、総計2万カット以上の写真を撮影し記録として残すことができた。
掲載する創業者の写真は、88歳の誕生日に突然部屋を伺い、写真を撮らせてくださいとお願いした。 快く撮らせて頂いた24枚中の1枚の写真である。この24枚の写真は今も大切に利用されている。
広報の担当は、社内情報用の各事業場の撮影、松風、社内時報掲載用の撮影、給与明細リーフレット用の撮影、社内行事や業界行事での撮影、メディア向けの写真提供 等々。正直きつい面もあったと懐かしそうに話されました。平成4年5月ついに社員プロカメラマンとしての職責を全うし卒業を迎えられます。
◆フリーカメラマンとしての活動期
退職後もフリーカメラマンとして活動を続けられます。貝塚写真事務所を開設し撮影依頼を受けます。まさしくフリーのプロカメラマンの誕生である。 当時は、松風に退職者の写真を掲載していたが、この撮影をやることになる。多い時は、日に百人単位の月もあった。
その様な広報関連の仕事を続ける中で、創業者の写真整理を行うことになった。丸1年以上の時間が掛かったが、創業者の1750案件の写真整理と撮影記録をドキュメント化した。
今も社史室に大切に保管されている。現在も関連部門から問合せの連絡が来るようだ。A4記録紙500枚に迫る記録である。日付、場所、撮影の内容、撮影者等の記録である。(写真参照)
真々庵からの撮影依頼を請けることになった。真々庵に展示する『人間国宝』の方の写真の撮影である。
北は山形、輪島、四国、南は九州まで一流を極めた達人たちの工房を訪れ、作品の製作風景や作品の撮影である。また違った緊張感と 美しさを追求される一級の達人たちとの格闘であった。
人間国宝の方たちは、概ね写真撮影技術にも造詣が深く素人と侮れない。まさに真剣勝負である。振り返ると30人の人間国宝の達人たちと交流を持つことになった。ここで撮影された『人間国宝』の写真は、後日朝日新聞の週刊『人間国宝』誌にも掲載されることになる。
また卒業と同時に新しい取組も始まった。前述の撮影依頼と並行して松愛会写真部、枚方南・北支部の写真同好会の会員に対して撮影指導を始めた。 おかげで作品展示会も、宣伝部OB7人の文化祭、好きかって展、松愛会関連を含めて合計66回を数えることだ。作品を通じて会員各位の成長の姿を楽しみにしている。(写真掲載)
◆80歳を迎えて続けている写真との関わり
80歳を迎えるころ、仕事に出かけるには、カメラ数台、照明機器、三脚、交換レンズ、フィルム等の 撮影機材を合わせると15~20KGの重量の機材が必要になる。 体力的にも限界を感じやむなくプロカメラマンの旗を降ろす決断をした。
意を決した貝塚夢中人は、機材の多くを処分したそうです。思い出が詰まったフィルムカメラはどうしても手放すことができなかったそうです(写真掲載)。 現在は、パナソニックカメラ、ニコンカメラなど100%デジタルカメラを楽しんでいる。
活動面では、現在も松愛会写真部および枚方南支部・北支部の写真同好会(MH写そう会)会員への撮影指導は続けている。
遠方の撮影会にも必ず参加する。 指導者として、プロカメラマンとしての矜持を持ち続ける貝塚さんの気迫には脱帽です。
一方では、デジタルカメラ中心に替えて、楽になったとしきり。 撮影の結果がその場で確認できるので失敗がないのが楽。 画像処理がとても簡単になった。プリントも自宅で簡単にできる。
毎日アトリエで写真に囲まれ今でも“写真写真”の人生を大いに謳歌されているように見える。プロを卒業しての感想をお聞きすると、やっと『私の趣味は写真です』と言えるようになった。そうです。奥様にお聞きすると『写真の事になると何時間でも話が終わらないんですよ』と嬉しそうでした。
◆取材を終えて
〇写真の魅力についてお聞きしました
写真は正確な記録性、伝達性と、作品としての芸術的表現の両面を持つ創作表現と理解している。その時その場にある現実に触発された感覚や感動、思想をカメラのレンズを透して出来上がりを想像しながら記録表現する喜び、楽しみや面白さである。言葉では表現できないものを映像で表現する。
対象物の美しさ(色彩、質感、造形美、光)を主観的に或いは客観的に写真表現に挑む楽しみ。絵画ではとても望めない被写体の形状、質感、シャープな精密な描写がもたらすリアル感。がたまらない。
〇素人写真をうまく撮るコツをお聞きしました
プロは写真と言う「商品」の制作。アマチュアは、何の制約もなく趣味として自由に作品作りが出来る。好奇心、自分の個性、感性を生かし創造表現する人は伸びる。
ピントを外さない、光をうまく使う、そして伝えたいものが引き立つ構図が基本。 但しカメラ、レンズ、撮影技術の理論武装は当然ながら一番大切。楽しく好きな物を撮影する、他人と異なるものを撮る。写真表現は、楽しみながら追求する限りなき、永遠の課題である。
4.貝塚さんの作品集
『掲載しています作品の作品名や撮影場所は意図的に掲載していません』
*)東京工芸大学は、小西六写真工業(現コニカミノルタ)が、東京写真専門学校として創立した。 その後、東京写真大学に改名し、多くのプロカメラマンや卓越した写真関連技術者を養成した。 現在創立90年を数える日本の写真技術発展の原動力である。
<取材:梅原、吉川、中溝 HP作成:中溝 WP編集:中溝>
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