”少年野球に夢乗せて”
枚方市東香里3丁目在住
2008年3月25日 取材
1.取材訪問
今回は少年野球「枚方香里フェニックス」監督として全国的にもその名を知られ、現在も同球団代表の西岡堆二(たかじ)さんを、2008年3月25日に枚方市東香里3丁目のご自宅に訪問した。
2. 動機と経歴
西岡さんは1937年(昭和12年)のお生まれで、1959年(昭和34年)に松下電器入社、乾電池(事)へ配属されるが、高校、大学時代からよく活躍されていた野球選手であった。 氏自身の選手経歴を簡単に紹介すると、泉陽高校(大阪府堺市)時代には春夏連続甲子園に出場。中央大学を経て松下電器に入り、中堅手1番打者として活躍。1960年(昭和35年)の都市対抗で準優勝し、この年全日本ハワイ遠征メンバーに選出される。
1965年(昭和40年)から3年間は、松下野球部監督として活躍。阪急の福本豊、加藤秀司などの 有名選手が育ち巣立って行った。1967年(昭和42年)の松下電器野球部員名簿に両選手の若き時代の名前が見られる。松下野球部引退後の1973年(昭和48年)4月、氏の経歴を聞きつけた近所の少年野球団の地域有力者発起人から監督就任を強く要請され、現在までの35年間少年野球へ傾注することになった。 松下の代表選手時代は野球も重要な仕事であるが、職場(電池営業部門)へ戻ってからは、休日中心の私的活動であり、氏の「夢中人」としての新しい楽しみと苦しみがここから始まる。土日、祝日、年休の殆どすべてを、野球指導に捧げることになる。
3. 活動記録
インタビューしていて先ず気付いたのは、声の大きさと明解な口調だ。小学生相手の監督生活で自然に身についたものであろうか、後に「殺人体操」や「嵐の100本ノック」とも呼ばれた 氏の厳しい訓練の一端を知ることになった。 香里スポーツ少年団(現/枚方香里フェニックス少年野球団)として開始した最初の1年間は、野球にならないこともあった様だが、2年目からは「野球は勝たなければ意味がない。 悔しい思いが残るだけ。どこにもない訓練と団結を図ろう」を合言葉に、選手と指導者と父母の三つの輪が一体になった取組みを開始。 遊び感覚で入っていた一部の選手や父兄から「そこまでやらなくても」とか「練習が厳しすぎる」という意見も出たようであるが、勝つことによってチームが盛り上がることを全員が実感するようになり、 後の栄光への道を邁進することになった。 最初の栄光は、早くも2年目の1974年、枚方市軟式野球連盟春季大会での優勝であった。強化のための早朝練習等が、子供達の勉学に影響ないかを気にされたようであるが、 父兄や先生から「生徒の態度が何事にも積極的になった」と励ましの言葉が返ってきたということである。
その後の栄光は、1982年、1990年の全日本学童軟式野球大会での全国優勝2回を含む、近畿地区での数多くの優勝で、文字通り連戦連勝、年間優勝10回以上が長く継続することになった。これは戦績一覧表(枚方香里フェニックス20年史/1993刊行より抜粋)に詳しい。 このチームからは高校野球、社会人、プロ野球選手を多く排出しており、プロでは楽天の現役、中日の在籍経験選手がいるということである。監督は既にチーム出身の若手に譲られているが、 球団代表として「楽しむだけでなく勝利に向かって継続する」という信念で、現在も指導を継続されている。 幸美(よしみ)夫人も以前「ミズノ」に勤務されていたスポーツレディで、氏の良き理解者であるが、最近はご夫婦お揃いで松下OBのゴルフ同好会「松市会」の入賞常連メンバーとして、ゴルフも楽しまれている。奥様の好きな言葉は、広島・衣笠選手が述べた「私に野球を与えてくれた神様に感謝します」とのことである。
4.話題になった記念写真・優勝トロフィー・表彰状など
◇枚方香里フェニックス少年野球団七つのモットー
- 顔を見たらまずあいさつを
- 1球ごとに かけ声を
- 素質はなくても 努力はみのる
- ボール拾いは まず自分から
- 注意されたら 返事と実行
- 必ず守れ 用具の始末
- 一日一度は 机の前に
<取材:鬼頭、梅原、大熊、吉川 HP作成:吉川 WP編集:吉川>