第6・7回『御殿山アート坂・殿山百済寺道』
(京阪御殿山駅~百済寺址)
2004年 9月 2日取材
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◆御殿山アート坂(御殿山駅~御殿山美術センター)
◆殿山百済寺道(御殿山町~公団中宮団地~禁野本町~宮之阪2~百済寺址(中宮西之町))
京阪御殿山駅から見える小高い丘の上に、1987年5月御殿山美術センターと図書館がオープンした。この地にはもと「大阪美術学校」があった。美術学校は愛媛出身の画家矢野橋村によって、1924年(大13)に設立され、1929年(昭4)天王寺からここに移転し多くの画人を輩出した。その跡地が芸術を愛する市民に開放され、センターへと生まれ変わりました。
美術センターには、四つの創作室があり油彩・水彩、 版画・工芸、日本画・水彩、陶芸など市民の自主的な学習活動に施設を提供する公民館としての運営をしています。駅前の商店街を通り抜けて美術センターに登りつめる道が「御殿山アート坂」と名づけられた。 平安人から渚岡といわれ、領主永井伊賀守が陣屋を設けたことから御殿山と呼ばれる、この丘の上には御殿山公園、御殿山神社がある。
アート坂からさらに南に行くと、巨大な公団中宮団地があり「殿山百済寺道」が始まる。この道は百済寺址(中宮西之町)まで続き、両側には昭和44年以降に完成した中宮第3・第4団地が続き、啓光学園、明倫小学校を過ぎたところに百済王神社と百済寺址史跡公園がひろがる。
朝鮮半島の国、百済が新羅に滅ぼされ日本に亡命した善光などの一族が百済王という姓をもらって大阪に住み朝廷に仕えた。子孫の敬福が陸奥国の国司をしているとき、奈良の大仏鋳造のために金を寄付した、その功績によって枚方中宮に住み、先祖を祀るため百済王神社をつくり、菩提を弔うために百済寺を作ったと考えられている。大伽藍のあった百済寺址は1952年(昭27)に国の特別史跡に指定されている。
枚方と百済との関係については、ふるさと枚方発見第8回『伝王仁塚と特別史跡・百済寺跡』に詳しく触れたのでその項をを参照されたい。(ここをクリックするとそのページにリンクしています。)
- 御殿山駅から美術センターに登りつめる道が御殿山アート坂
- 平安人から渚岡といわれ領主が陣屋を設けたことから御殿山と呼ばれる
- 元は御殿山神社の参道だった裏道から美術センターを見る
- 御殿山神社の境内が児童公園になっている
- 御殿山神社は明治3年にふもと小倉の粟倉神社から引っ越してきた
- 八幡大神を祀っている神社には近隣の町名が彫られた灯篭が並ぶ
- 美術センターは陶芸等市民の自主的な学習活動に施設を提供する公民館
- かって大阪美術学校があり多くの画人を輩出した跡地に1987年5月御殿山美術センターと図書館がオープンした
- 駅から登りつめてきたところ美術センター前が御殿山アート坂の終点
- 突き当たりの美術センターからアート坂を駅に向かって下ってきた
- 美術センターのすぐ下から御殿山駅を振り返る
- アート坂から南に行くと、公団中宮団地があり「殿山百済寺道」が始まる
- 第3中宮団地の壁面には三十石舟のイラストが描かれている
- 中宮団地の一郭の1階がピーコックになっている
- 無愛想なブロック塀に禁野保育園児の壁画があり和ませてくれる
- 両側に中宮団地が並ぶ殿山百済寺道の中間地点
- ユニークなデザインと大きな銅版画が目に付く明倫小学校
- 殿山百済寺道の宮之阪側は中宮病院横の信号で終わるが標識が無い
- 交差点の東にある百済王神社参道の階段
- 2年前に拝殿が改装された百済王神社は一族の先祖を祀るため牛頭天王を祀る
- 大伽藍のあった百済寺址は1952年に国の特別史跡に指定された
- 敷地全体が史跡公園として整備され、建物の基壇、礎石が復元された
<リポーター:岸本・井須・田宮・鬼頭・梅原・日垣・冨田 HP作成:冨田 WP編集:徳田>