2021.12.13
南中振 10班
「人生多楽」
◇出身地は名古屋市の真ん中、名古屋市中区東瓦町
1934年(昭和9年)6月5日に名古屋の里に生まれ、戦時の香りがし始めた昭和16年に近くの小川国民学校に入学しました。その年の12月8日、朝のニュースで「大東亜戦争勃発のニュースを聞き、両親の「いよいよ始まったか!」と云うのを聞きました。
4年生の時、集団疎開で、愛知県中島郡千代田村へ行きました。もちろん両親とは別れです。風呂は1週間に1度近所の農家でお借りし、風呂から出て帰るときは「ごちそうさんでした」と言って帰ることを覚えました。勉強する機会は、ほとんどありませんでした。
たまたま耳が痛くて郷里に帰った時に、米軍空襲があり、一家5人が4つのグループ(私は姉と一緒、その他、父、母、兄それぞれ単独)で一晩市内を逃げ回ったのち、わが家が全焼したことを知りました。
隣のおじさんが防空壕で亡くなり、近くの5人家族が全滅し、私の友人の床屋の息子も亡くなった等、多くの被害がありましたが、幸い5人がある町角(東新町)で偶然会うことができ、そのまま海部郡立田村の親戚に行き、一晩泊めてもらい、そのあと父の知人の世話で、岐阜県で1週間寝泊まりした後、愛知県海部郡津島町(のちに津島市)で永住することになりました。
そこで津島町立第二国民学校、津島市立西中学校、愛知県立津島高校、国立名古屋大学工学部を卒業して、昭和32年松下電器に入社しました。
津島市は津島祭りが有名で、古くは織田信長が祭りなどに参加していたと言われており、イギリスの博物館にも祭りの絵が飾られているとかです。
◇松下電器での生活
最初は藤沢市辻堂の蓄電池事業部で、研究部の所属で鉛蓄電池の研究を始めました。最初の一年は正極、次は負極、その次が曲板製造の自動化を担当しました。その間、労働組合の執行委員を経験しました。4年目の昭和35年6月に中央研究所への転勤が命ぜられ、1週間で大阪に移りました。
中央研究所では化学部に属し、天野部長のもと、銀蓄電池の研究に従事しました。
続いて、昭和38年、乾電池事業部への転勤を命ぜられ、乾電池工場のPMD係の主任として赴任しました。職場は女子社員が多く、初めての製造責任者として、いろいろ戸惑いはありましたが、何とか楽しく過ごせました。その後、工場、研究、環境、社員教育など、あれこれ経験させて頂きました。
今思えば、これが良かったなあと思っています。いろんな経験をお金をもらって勉強させていただけるなんて、正に感謝感激です。(もし学校で学ぶとしたら、どれだけ多くのお金がいったことでしょう!)
- 技術・研究関係・・・・・・約19年
- 工場関係・・・・・・・・・・・・約12年
- 環境関係・・・・・・・・・・・・約2年
- 技術人事・・・・・・・・・・・・約4年
- 学会、工業会関係 「電気化学会」「太陽電池学会」「乾電池工業会」・・・・・・・・・・ 技術委員会副委員長、環境委員会委員長
◇定年後の生活
会社を定年になるときに、友人から「これからどうするのか」という質問があり、「何もない」といいましたら、私の所へ来ないかという誘いがあり、それから、第二の人生が始まりました。
「三重大学」、「名古屋大学」、「住友商事」、「さだ中学校」、「松下テクノサーチ」、「三重大学TLO」、「南中振自治会」、「ベンチャーラボ」、「4M&G EBI」など、あちらこちらでお世話になりました。
◇松愛会とのかかわり
退職と同時に松愛会に入れてもらい、あまり積極的な活動はしておりませんが、枚方南支部の新春懇親会、年次総会には毎年参加をしており、同時に開かれる作品展には写詩作品を出展しています。また家の近くの蹉跎神社清掃にも参加するようにしています。松愛会の皆さんとのおつきあいは楽しく、近隣の松愛会メンバーの飲み会兼カラオケ会にも入れてもらっています。
現役時代の苦楽が云わなくても、わかっていただける仲間は誠に貴重な存在です。今後も長くお付き合いしたいと思っています。よろしくお願いいたします。
- 枚方南支部 支部だより2018年6月号『元気ですよ!コーナー』にも登場しています。
- 新春懇親会作品展に出展した写詩作品
◇人生の楽しみ
70歳になった時、上記のモロモロの仕事を全部辞めました。(実は60代後半に、「70歳になったら全ての仕事を辞めます」と関係者に伝えており、無事全部を返上することができました。しかしその時、一体何をしようかと悩みました。たまたま新聞広告で、劇団東俳の募集の広告をみて、試しに応募しようかと考え、入団しました。今までの生活とは全く違いましたが、やってみますと結構面白く、楽しめました。
初舞台は、「二十四の瞳」の校長先生役、次は「天国と地獄」の侍従長役、次は「王子と乞食」の商人役でした。その他、劇団がたまたまNHK大阪のちかくにあったので、時々NHKの番組に出させてもらいました。朝ドラは云うにおよばず、NHKだけでなく、その他のテレビ局でもお世話になりました。
東俳は7年ぐらいで退会しましたが、モデル稼業は楽しく、別の団体に入って、現在まで進めています。ただしこの2年間はコロナの影響で、実際のお話は全て断っています。コロナが終われば、再開したいと思っています。
俳優業に続いて、音訳家業を行いました。音訳といいますのは、目の見えない方の為に本や新聞を読んで、録音する仕事です。私は新聞のほかに、パナソニック製の雑誌「本当の時代」を読むことが多かったと思います。これはわたくしの勉強にもなりました。(現退会)
次いで日本語ボランテイア(現退会)を続けました。世界から日本へ来られる方は多く、特に枚方市は沢山の人が勉強や仕事などで来ておられます。そんな方にとって日本語は生活上必至ですし、真面目半分、遊び半分で付き合っていますと、私自身も、学習者も楽しく長続きします。彼らは日本語というよりも生活語が重要ですし、生活の中の喜怒哀楽を日本語で感じるようになれば素敵だと思っています。そんな訳で、現在退会された外国の方とも何人か個人的な付き合いを続けています。
ある会合でたまたま横に座った人が、漢詩を作っているといわれ、日本人でもそんな事ができるのかと思い、早速入会しました。これが翠川会と云う詩吟の会であり、月1回は漢詩作成発表の日と云うことで始めたのが今日に至っています。その一環として、毎年、写詩展を発表しています。これは、漢詩だけではイメージが分かりにくいので、写真と解説を付けて、誰でも理解して頂けるようにしたものです。その他、若いころに習った謡曲を吟詠したりしてます。流派は宝生流です。
他に参加している団体は、学生時代のものが多いのですが、小中学校の友人の集まり(現解散)、高校の同期会、大学の同期会=OKA32、関西の集まり、同期入社の集まり=松鶏会とそのグループのカラオケグループ=鶏声会、蓄電池時代の集まり=31・32会、学生時代の延長=MK会、松愛会、東海地方中心の老人の集まり=向老学会(現解散準備中)、マイクロ電池同窓会、電池会、電池人事の集まり、ナルク、詩吟の会=翠川会、老人ホーム慰問の会=華びらき、コーラス=OSCメイトなどの他、その他地域の老人会役員も続けてきました(現役員退出)、サントリー1万人の第九も10年ぐらい参加しました。こんなことでいろいろと楽しんできています。
◇その他もろもろ
- 健康:慢性肺気腫
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出版:「電池の知識」Clinical Èngineering 8回連載」、「新しい電池の科学(講談社)(執筆)」 「エネルギー読本(共著)」、「環境読本」(投稿)」 「電気化学便覧(共著)」 「図解電池の話(共著)」、「最新電子部品・デバイス実装技術便覧(投稿)」 「自然エネルギー利用学(共著)」「岳鶯漢詩集(自作品)」「岳鶯写詩集(自作品)」 「松鶏会新聞(第1号~第14号)(編集)、松鶏会記念誌」(編集) -
資格:珠算、自動車免許、エネルギーコミュニケーター、大気関係第2種防止管理者 乙種火薬取扱保安管理者、詩吟(師範) - 家族:妻、子供(2名+配偶者2名)、孫(3名+配偶者2名)、ひ孫(2名)…計13名
◇終わりに
いろいろな場所・場面で多くの人と知り合いになりました。これは私の貴重な財産です。これからも、 多くの人と接してこの財産を増やしていきたいと思っています。是非声をかけて下さい。
ところで、私の性格はあまり真面目にコツコツとするタイプではなく、中の上ぐらいを目指して、だらだらと事を行うやり方ですので、ご不満は多いかと思いますがご容赦ください。なお、ご指摘があれば直すという気持ちは持っていますので、これからもご指導のほど宜しくお願いします。 (令和3年12月)
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