”奥様と共に歩む「ハワイアン」”
枚方市東香里2丁目在住
2016年3月30日 取材
<追伸>2023-6-10
下記夢中人活動の抄録版ともいうべき「私の趣味と人生」という小冊子を、
米寿を迎えられた記念として、2023年1月に作成されました。(24ページ構成)
入手ご希望の方は、中村さん宛に直接ご連絡ください(無料)。
(Tel:072-854-4056)
1.プロフィール
昭和10(1935)年、金沢の繁華街香林坊近くで生まれた中村俊夫さんは現在81歳。奥様と共にハワイアンとフラをこよなく愛するおしどり夫婦です。今日はそんな中村さんの足跡をハワイアンを中心に辿っていきます。子供の頃は百貨店が遊び場で、アトラクションのバンド演奏を聞いたり、マジックショップのマジックを見たりして育ちました。また金沢は芸所で子供の頃から、お父様に宝生流の謡曲を教えて頂き、隣には三味線のお師匠さんがいました。そのような環境で育ったことが、ご本人の趣味に多大な影響を与えている様です。
昭和32(1957)年、金沢大学工学部を卒業、松下電工に入社、希望した現場の金属プレス工場に配属になります。その後昭和44(1969)年には米国プレス加工視察団に加わりアメリカ各地を視察、その帰りにハワイ見物をしたことが、ハワイアンやフラに人生を捧げる決定的なターニングポイントになった様です。昭和50(1975)年に松下電器・録音機事業部へ移籍し、平成7(1995)年に生産技術本部・精機事業部にて定年を迎えられました。
2.青春時代からハワイアンの蕾みを育む
中学、高校時代は、ダイアナの様なアメリカンポップスをはじめ、ジャズ、ウエスタン、ハワイアン等々のポピュラーミュージックが大流行し、特にハワイアンは今まで聞いたことのないスチールギターの甘い音色が魅惑的ですっかりその虜になりました。更に「自分で演奏できたらもっと楽しいだろう」という強い願望が沸き起こります。
そして高校入学時、歓迎会で先輩がハワイアンバンドで演奏してくれたのにびっくり。バンドに入りかったのですが断られたことに奮発し、独学でスチールギターをマスターします。大学生の頃には、社交ダンスを香林坊のネオン煌めくダンス教習所で趣味の引出しを増やしていきます。
その頃加山雄三の若大将シリーズの映画に見られる様に「ダンスパーティやダンスホールでハワイアンが弾けたらいいのになあ」と思い始める時期を迎えます。
松下電工に入社してから仲間を集めてハワイアンバンドを結成、当時のハワイアンはスチールギタ-がメロディを弾き、ウクレレとギターはコードを弾くという形態で、スチール奏者に全責任が掛かっていました。スチール奏者さえいれば簡単にバンドが編成できたのです。
3.ハワイアンの演奏する夢を叶えていきます
a、「ハワイアンフアンクラブ」にて
東京の東海林 仁氏が主催する業界誌の会員になり、イベントやレコードの発売情報を収集していきます。このおかげで東京で最も有名なライブハウスである「バードランド」でスチールを弾かせてもらい、とても貴重な経験になりました。
b、「マーメイドハワイアンクラブ」にて
ベンチャーズが来日して世の中にエレキブームが巻き起ると全国に無数にあったハワイアンバンドが一瞬にして消滅します。そんな時、北新地のサパークラブ「人魚姫」マスターの「尾野のぼる」氏が率いる「マーメイドハワイアンクラブ」が関西のハワイアンミュージシャンやハワイアンの愛好者を集めて毎月ハワイアンパーティを開いていました。ここで色々な人と知り合い、テクニックも磨かれました。
c、「レフア先生一門」に所属する
上述の「人魚姫」にある時「レフアとも子」先生という東京の若いフラの先生が来られ、大阪でもフラ教室を開きたいと言われました。当時、大阪にはフラ教室は一つもありませんでしたので、大いに賛成し奥様を第1期生として教室通いを薦めます。そして当時東京で活躍されていたこの「レフア先生一門」
のコンサートとかフラパーティで「スイングアロハ」が専属バンドとして演奏させてもらえるようになり、長年の夢が叶う瞬間でした。
d、「京阪コミュニテイクラブ」にて
当時、ハワイアンパーティとかダンスパーテイを主催している所はありましたが、ギャラを弾んで「スイングアロハ」を呼んでくれるような団体は殆どありませんでした。それならと自分がハワイアンパーティとかダンスパーティの主催者になって、そこで演奏することになります。その代表格が「上田嘉行」氏と組んで主催した「京阪コミュニティクラブ」です。
このダンスパーティは枚方メセナとか枚方渚体育館の大ホールで月に2~3回というハイペースで開き、2~3ヶ月毎にスイングアロハの生演奏のパーティにしました。当時、生バンドで踊る様なダンスパーティは殆どなかったので大評判になり、いつも超満員の大盛況でした。
こんな京阪コミニュティクラブの活動を10年継続してきましたが、今日現在は200名の生徒さんにフラを教える奥様のフラ教室や、フラパーティを中心に活動を継続しておられます。奥様のフラ教室ももうすぐ20周年を迎えられます。
<数々の所属団体での演奏活動>
4.これからのハワイアンの活動の目標をお聞かせ下さい
スイングアロハは私がリーダーで設立して以来メンバーこそ何回も変わっていますが、あのハワイアンの氷河期も途切れることなく今日まで続いて来ています。恐らくこんな寿命の長いバンドは他にはないと思います。 しかしスイングアロハにも高齢化の波は押し寄せています。
一昨年には、紅一点の若い桑名セツ子が突然死にました。年長の私だけは元気ですが、今年3月のフラパーティへの出演はやめて、今年は私だけ奈良から呼んだプアプアというバンドと一緒にやりました。スイングアロハは何れなくなるとは思いますが、私は死ぬまでハワイアンをやり続けようと思っています。
5.これまでに記憶に残る思い出をお聞かせ下さい
a、園遊会でプロのフラダンサーと共演
松下電工の園遊会のアトラクションでプロのフラダンサーと共演しました。この時は大阪テレビの槇洋介氏が司会でしたが、氏が東京からプロのフラダンサーを呼んで下さり、彼女のフラダンサーと華やかな演奏して舞い上がったことです。当時アマチュアバンでこんな嬉しい経験をしたバンドはなかったと思います。
b、ハワイアンフェスティバルに出演
尾野のぼる氏のマーメイドハワイアンクラブで、昭和60年にバナナホールにて開催したハワイアンフエスティバルに出演したことです。このライブは、ハワイアンの氷河期にあって関西の10を超えるハワイアンバンドが出演し、朝の10時から夜になるまで演奏し続けたという、今や伝説となっているイベントです。この記念すべき大舞台にスイングアロハで出演でき本当に興奮しました。また家内の先生であるレフア先生が東京から駆け付けて下さり、スイングアロハの伴奏で大阪で初めてフラを披露し下さった時の感動は今も忘れません。
c、ジェノアケアベのリサイタルに出演
当時、ハワイアンの大御所はハワイのジェノアケアベでした。その雲の上の人ケアベさんがレフア先生の肝いりで来日され、淀屋橋の朝日生命ビルでリサイタルをされた時、スイングアロハが前座をしたことです。あの時はハワイから来たバンドのために、人魚姫から大きなウッドベースを持込んだり大変でしたが、会場に見に来ていたバンドの連中のに羨望の目で見られ、あんなに誇らし思い出は初めてでした。
d、10周年フラコンサートの実施
平成21(2009)年に枚方市民会館で家内の設立10周年のフラコンサートを実施しました。
この時はスイングアロハもバックバンドで出たかったのですが、何しろ大変なイベントなので断念しました先ず、大きな宣伝ポスターをパソコンで作り枚方近郊の公民館等の施設に貼ってもらいました。また枚方市長にお願いして挨拶文を書いてもらい立派なプログラムも印刷しました。市の広報やマイライフ社に当日取材してもらう様にも頼みました。また市民会館の音響・照明は古いので、懇意にしていた神戸の荒木善二郎氏のユーズグループにお願いして最新の音響設備をもって来てもらい、2階から大きな椰子の木を入れて素晴らしい舞台にしました。照明もコンピュータを使う最新の照明にし、フイナーレで花吹雪を降らす手配もしました。
それで当日になると早くからお客さんが駅から長蛇の列で押し寄せてきて、1階は両脇の通路も後の立ち見席も直ぐに一杯になり、2階席もどこもかしこも一杯になりました。またこの様なコンサートでは家族が自分の娘が踊るのを見たら帰るのですが、最後まで誰一人として帰りませんでした。それだけこのステージが魅力的な素晴らしい舞台だったと思います。緞帳が下りた時、皆泣いていました。これがわたしの心の残る最大の想い出です。
e、5000人の関西社交ダンスカーニバルイン大阪城ホールの実施
京阪コミュニテイクラブのバンド付ダンスパーティは最初は家内のフラチームのフラが目玉のアトラクションでしたが、そのうちダンスの先生のデモンストレーションに変えました。さらに別の主催団体と手を組んで、池田市の体育館とか中之島公会堂とか、もっと広い会場で第一級のプロとか世界で一二を争う外人プロを呼んでする様になりました。そして最終はあの大阪城ホールで5000人を集めての大ダンスパーティをやりました。もっともこのときスイングアロハが演奏したわけであはありませんが、私のもう一つの趣味社交ダンスにおける最大の思い出です。
<記憶に残る思い出の演奏活動>
6.スイングアロハの魅力は?
a、レパートリーが豊富で、飽きさせない
他のハワイアンバンドと違って本格的なダンス音楽もできることです。即ちハワイアンだけでなく、ジャズ、ウエスタン、カンツオーネ等々が唄えるので、いくら聞いていても飽きないのです。
b、ビジュアル系である
ハワイアンバンドはアロハを着ますが、大体着た切り雀です。スイングアロハではいつも白靴、白ズボンに最新の揃いのアロハを着ています。
それに女性に「素敵なアロハですね」と褒められると嬉れしいからです。それからバックに吊るす「SWING ALOHA」のロゴも迫力があって評判が高いです。
c、いつもテンポが正確なので踊りやすい
フラのバックバンドをするときでも、ダンスのバックバンドをする場合でも適切なテンポで演奏しないと駄目です。この点、スイングアロハではコンピュータの打ち込みを使っていますので、常に正しいテンポで長さの演奏ができるのです。
7.取材を終えて
戦後、日本ではマイナーであった「ハワイアンミュージック」を普及させ、特に関西での活動は多くの足跡を残されており、会員の誇りとなるものであります。個人の多芸振りは、「三味線」、「カラオケ」(東香里自治会・カラオケ同好会会長)、「マジック」(枚方南支部・マジック同好会会長)(マジック同好会は、ここをクリック)、「折紙(折鶴、連鶴)」、「ポップアップペーパークラフト」、「社交ダンス」と非常に幅広い活動をされています。これからも、いつまでもお元気で続けて頂きたいものです。
本日登場の中村さんは、ハワイアンのHPを運営されています。ご覧になりたい方は、ここをクリックしてください。
<取材:梅原、吉川、中溝 HP作成:梅原、吉川 WP編集:中溝>
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