第4回 『菅原神社』(長尾)
2013/1/16 取材
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枚方発見の神社シリーズの第4回目として、長尾宮前1丁目の「菅原神社」を参拝し、取材しました。この神社は学研都市線(片町線)長尾駅の南約300m、鎮守の森の中にあります。
第一、第二、第三の鳥居を潜り、歳旦祭(お正月)や昨日のどんと祭りで賑わっていた境内も静けさを取り戻した中で、社務所にて宮司の夛田保信様から懇切丁寧な説明を受けました。 尚、宮司の夛田様は、2箇所の遥拝所「菅原天満宮」(長尾峠町と高野道1丁目)もみておられます。
【菅原神社・水神神社・稲荷神社の概要】
◆所在地 | 枚方市長尾宮前1-12-1 学研都市線(片町線)長尾駅 徒歩5~6分 |
◆境内の敷地 | 約 2,100坪(約 6,930㎡) |
◆祭神 | ・菅原神社:菅原道真公 ・水神社(貴船神社):タカオカミ神・クラオカミ神 ・高倉稲荷神社:ウカノミタマ命 |
◆創建 | ・菅原神社:慶安3年(1650年) ・水神社(貴船神社):18世紀の末頃 ・高倉稲荷神社:延宝6年(1678年) |
◆例祭 | ・1月1日 歳旦祭 ・1月15日 とんど祭り ・2月3日 節分祭 ・2月初午 稲荷祭 ・2月25日 祈年祭 ・5月1日 水神宮祭 ・7月25日 天神祭 ・10月(第2又は第3日曜)みこし巡行 ・1月15日 とんど祭り ・10月(第2又は第3日曜) ・10月19日 秋季祭 11月25日 新嘗祭 |
【菅原神社(長尾)の由来】
元和元年(1,615年)大坂落城の後、徳川家康の命により、その旗本の久貝因幡守正俊公(くがいいなばのかみまさとし)が河州交野郡(四条畷・寝屋川の東部地域)を采地された。その頃長尾の丘陵地は荒野で河内、山城の国境で交通の要所であり、古来から戦略上の要地であったため、ここに陣屋を営まんとした。
陣屋を建てるには村おこしが必要と久貝氏の家来であった細谷善兵衛氏は戸数 13戸の村民や近隣村民を集め、彼らと共に長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造った。
開墾地は良い土壌で穀物の増収があり、この丘陵は「福をもたらす岡」とのことから「福岡村(※1)」と名付けたとのことである。 その後も開拓を奨励したため、近隣村落からの移入者も次第に多くなり、慶安三年(1,650年)には戸数 33戸に増加した。
「鎮守をたてて村の団結を図るが良かろう 」と京都長岡天神の分霊を受け、質素な氏神をこの地に建てたのが「菅原天神」の始まりであった。 よって菅原道真公を祭祀する。 その後年には陣屋も建ち、開梱地、戸数は増加の一途をたどる。 やがて摂社として「峠天満宮」や「高野道天満宮」また、「水神宮」「高倉稲荷大神」「皇大神宮」が順次造営された。
当初の氏神天神は藁葺き屋根の粗末なものであったためか、この間1,739年には氏神再建、1,755年拝殿再建との記録もあり、その都度、村民、氏子の力によって修復や補修を繰り返してきた。 近年になり神殿、拝殿、社務所建物は老朽化が著しく進み、改築や修繕が困難となってきた。 平成3年の年頭から神社再建の機運が高まり、氏子崇敬(すうけい)者の皆様の支援・協力により、現在のお社の造営事業が同年から始まり、平成6年3月27日に竣工した。
※1:「福岡村」はその後「長尾村」と改称され、明治22年(1,889年)藤坂村と合併して「菅原村大字長尾」となり、昭和15年に菅原、津田、氷室の三ヶ村が合併して「津田町大字長尾」と変遷し、昭和30年に枚方市と合併し現在に至ってる。
( 「北河内のお宮」(大阪府神社庁第三支部 平成21年発行)より抜粋)
【道真と牛(※3)】
境内の本殿前に『臥牛の像』と拝殿の左右側にも同じ『臥牛の像」がある。 道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「菅公の御遺骸を運ぶ途中に、車を引く牛が座り込んで、動かなくなったため、その付近の寺院、安楽寺に埋葬したが、それが道真の墓所(太宰府天満宮)でその位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。 また牛は水神との関係が深く、古代のころ旱天(かんてん)時の雨乞いに際して生贄(いけにえ)として献げられたりしていることから、天神としての道真にも関係している。
【水神社(貴船神社)(※3)】
本殿右手にある祠。神額には『水神宮』とあり、所謂『水神さん』である。 元は本殿裏にあった2つの池の畔に祀られていたようで、18世紀末頃に今の位置に移ったという。
長尾史(※2)によれば、この祠は本社創建当時からあったといわれ、最初は「八大竜王」を祀る水天宮と呼ばれていたが、その後山城の貴船神社から分霊を勧請(かんじょう)し『貴船神社』と称するようになったとある。 神名“オカミ”は龍を意味する水神で、タカオカミは山上に降る天を司る水源の神、クラオカミは峰々から流れ降る渓流の水を司る神とされる。
平安初期の太政官符に「河内の交野郡は土地が痩せていて、ややもすれば旱魃(かんばつ)に悩まされ、その田は一年おきの耕作にしか耐えない云々 』(枚方市史)とあるように、川はあるものの平素は水の少ない涸れ川ということで水利の便が悪く、水神さんへの雨乞いは恒例行事だったという。 このような土地柄が天神を祀り水神を祀る由縁であろう。
【高倉稲荷神社(※3)】
長尾史(※2)によれば、延宝6年( 1678年)、久貝陣屋の北西隅に勧請されたもので『お陣屋稲荷』と呼ばれ、毎年初午の日には長尾以外からも多くの参詣者が集まり、氏神である神社本来の祭よりも賑やかだったという。 祭神のウカノミタマ命は、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。 名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。
※2:1953年発刊の『長尾史』、著者:片山長三氏
※3:上記「道真と牛」「水神社(貴船神社)」「高倉稲荷神社」の文面は、関連サイト『枚方の神社ー4』などから作成
【その他】
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この社付近は、テンダイウヤク(漢名は天台烏薬)の群生地で市内でも重要な植物群落である。 このテンダイウヤクは中国原産の常緑低木で、日本へは享保年間(1716~1735年)に伝来し、九州や近畿などで野生化している。(「平成6年 枚方市教育委員会」の掲示)
<参考>高さ数mになり、細い枝を分けて株立ちとなる。葉は長さ5~8cmで広い卵形。葉柄は1cm程度で短く、三行脈が目立つ。 表面は強い光沢があり、裏面は粉白色で白毛が散生し、脈にも毛がある。 雌雄異株で、3月から4月頃に葉腋に淡黄色の花を数個咲かせる。 果実は直径1cmほどで、秋に黒く熟す。漢方で芳香性健胃薬や鎮痛薬として使われたり、熊野古道では煎じてお茶として飲まれている。 古く中国で、秦の始皇帝が不老長寿の霊薬(れいやく)を求めて、徐福(じょふく)という人を日本に派遣したという話もある。この時の霊薬というのが、このテンダイウヤクとされている。 - お正月の初詣者数は、枚方市内において比較的多いとのこと。その理由は、国道1号線より東側には神社が少ない、宮司さんがおられて行事もよく行われている、車の駐車場が完備(約70台)されているので遠方からの参拝ができる、長尾駅から徒歩5~6分で交通の便が非常によいなどです。
【取材後の感想】
- 神殿、拝殿、社務所建物の老朽化が著しく進み、現在のお社の造営事業が平成3年から始まり、平成6年3月27日に竣工したとのこと、まだ鳥居や本殿も新しく美しい神社でした。 第一の鳥居前後の参道の両脇には寄付された氏名の石碑が立ち並び、また第三の鳥居の前には立派な「馬像(秋吉号)」が奉納されるなど裕福な氏子さんが多いように感じました。
- 広大な敷地(登記上は7反)の管理(特に防災に最大注力)と 370軒の氏子や地域住民とのコミュニケーション作りに苦労されてる様子をお聞きして、宮司さんのお勤めも大変だと感じました。
- 年中行事(主な9行事)以外にも初宮参りをはじめとしていろいろのご祈祷もされ、昨年からは「12月の大祓(年越し祓い)」「6月の大祓い(夏越しの祓い)」や障害者や老人の方々にも参拝しやすいように努められるなど精力的に取り組まれ、今後多くの参拝者増に繋がっていくと感じました。
- この神社をはじめとして、北側の道路をへだてた久貝家の菩提寺「正俊寺」、長尾元町の少ない手勢で守るためのかぎの手に曲がった道路や死刑場跡、近くの「王仁塚」などの史跡が多いことを改めて感じました。
取材:金箱、坂本、中村、山添、大熊、倉橋 レポータ:山添