東海道57次
テレビのレギュラー番組で欠かさず視聴していた番組、NHKのタモリの「ブラタモリ」が、 11/2から11/4にかけ三夜連続放送されました。タイトルは「東海道57次の旅」で京都三条に向かう東海道53次の分岐点から伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿が紹介され、石清水八幡宮と枚方宿は説明者としてなじみのある人が説明され、特に興味をもって視聴しました。
視聴後思い出し20年前に自治会の役員をしていた頃に入手した、国交省・浪速国道事務局発行の「道をたんねて二千年」の冊子を再読しました。 平安時代から戦国時代前までは、京都から高野山詣での街道は今の1号線の洞ヶ峠・出屋敷を通る東高野街道が主街道でしたが、豊臣秀吉が伏見城と大坂城往来のため、淀川東岸に文禄堤をつくり、その後徳川家康が京街道として整備、4つの宿場町ができ、発展しました。
枚方宿(東海道57次の56番目の宿場)は特別な宿場町と定められ、全長1,447m、道幅4.5m、69軒の旅籠や店等378軒の家が並んでいました。また大名行列に備え本陣もあり、特にかささぎ橋は紀伊徳川家のために作られたとのことです。 また、シーボルトも伏見の旅の途中、食事をし「枚方はとても美しく、淀川の流域は祖国のマインの谷を思い出す」と日記に書いており、多くの旅人で大変繁盛した宿場でした。
余談ですが、明治にはいり、国道が整備されたとき、東海道は 1号線でなく国道2号線で、1号線になったのは昭和27年新国道法制定からです。
改めて枚方の歴史に触れ、感慨深いものを感じます。たまには「枚方くらわんか五六市」に行って、歴史に思いを馳せようかと思っています。
写真は、江戸時代伏見と大阪を結ぶ三十石船の船待ち宿として賑わった枚方宿の鍵屋を解体復元してできた鍵屋資料館です。
(写真はクリックで拡大できます。)
2024年12月1日
支部長 掛江 重男
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