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—は じ め に—
日本の城シリ-ズ現存天守第6弾は、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に
鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城”彦根城”を取り上げました。
切妻破風、唐破風、入母屋破風を巧みに組み合わせた屋根の形状が美しく調和と
美観を保ち、輪郭の荘厳さが際立つ唯一無二の特異な景観を醸しています。
由緒ある”彦根城”の歴史・特徴・話題(トピックス)なりをまとめました。
〈歴 史〉
彦根城の歴史を紐解くと徳川四天王の一人井伊直政は関ヶ原の戦いで武功を上げ
後に石田三成の居城であった佐和山城に入城、直政は中世的な古い城郭や三成の
居城であったことを嫌い、居城を移す計画をしたが、関ヶ原の戦いで負った傷が
癒えず慶長7年(1602年)死去した。
家督を継いだ井伊直継は幼少であったため、直政の遺臣である木俣守勝が陣頭指揮
を執り直政の意思を継ぎ慶長9年(1604年)琵琶湖に面した彦根山(金亀山)
に築城を開始!築城は公儀奉行や譜代大名が助勢を命じられた天下普請であった。
慶長11年(1606年)天守及び本丸広場が完成!直継が入城した。
大阪夏の陣で豊臣氏滅亡後、元和元年(1615年)築城普請が再開!その後御殿
や櫓・門・高石垣・中堀・外堀が完成!元和8年(1622年)築城は完了した。
彦根城を築くことにあたり彦根藩が所領する大津城や佐和山城などを移転や廃却し
その城の建築物を流用した結果、彦根藩には彦根城一城のみが残され井伊氏が諸
大名に「一国一城令」を遵守する手本となった。
徳川統治下太平の世において城郭と云う軍事施設の存在理由がなくなり徳川幕府
の軍事拠点だった彦根城だが、主な機能が政治の舞台や年貢米の保管となり天守
や櫓は倉庫として利用する以外に使い道はなかった。
明治6年発布「廃城令」により多くの城が廃城となり取り壊されたが、彦根城は
当初陸軍省管轄下の施設となっていた!老朽化のため、民間に売却し廃城される
予定だったが、明治11年の明治天皇「彦根行幸」がきっかけとなり、天守や櫓
の保存が決定した。
〈特 徴〉
❶彦根城は本丸・西の丸・太鼓丸・鐘の丸と井戸曲輪・出曲輪・観音台・山崎曲輪
が配置された連郭式平山城である。
❷天守は通し柱を用いず各階ごとに積み上げられた三層三階の複合式望楼型である。
天守を支える石垣は野面積みの一種“牛蒡積み”(ごぼうづみ)で築かれている。
多様な破風を設けた結果“隠し部屋”と呼ばれる部屋が二階の東西、三階の南北に
計4ヶ所あるが、隠し部屋としての意図があったか否かは不明である。
天守内には82ヶ所もの“鉄砲狭間”、“矢狭間”を備える!平時は外から見えない
ように漆喰壁で塗り込められており、戦時は壁を突き破って使用する。
一階には武者が控える“武者溜”が存在する!二階以上の窓は全て“花頭窓”を配し
最上階には“高欄付廻縁”が備えられているが、二重三重の破風にさえぎられ周囲
を廻ることができない非実用性の造りものである。
❸太鼓門は天守がある表口をかためる櫓門で、城内合図の太鼓を置いたことから
その名が付いたと云われる。太鼓門続櫓は建物の背面が開放され高欄付の廊下と
なっており、櫓では稀な構造となっている。
❹天秤櫓は南腰曲輪に築かれた櫓、廊下橋に接続する櫓門部分を中央に、両坂道
に面する多門櫓の角を二重櫓とすることで、左右対称となっていることが天秤櫓
の名の由来となっている。
天秤櫓の壁は戦を想定した造り!敵兵が攻め込む外側は防弾効果を高めるため
に壁を二重に塗り固め一段と厚くしており、その厚さは30cmを超えている。
天秤櫓にも外側を漆喰で塗り込んだ隠れ狭間を備えている。
❺西の丸三重櫓は西の丸西側に建つ櫓で、西方の搦め手(裏手)からの敵に備え
た守りの要であったが、三重櫓はこの搦め手を見下ろす位置に築かれた。
❻登り石垣は切岸など城の斜面を縦方向に走る石垣で敵に攻められた折、横方向
の移動を封じるために築かれたとされる彦根城には5ヶ所現存する。
〈話題(トピックス)〉
❶彦根城は姫路城・松本城・犬山城・松江城と共に“国宝”に指定されている。
❷平成18年(2006年)“日本100名城”に選定された。
❸彦根城の城内に残る玄宮園は彦根藩4代藩主井伊直興の下屋敷「二の丸御殿」
に伴う庭園として作庭された大規模な池泉回遊式(池を中心に配し、周りに園路
を設けた)大名庭園、往時の趣きを色濃く残し四季折々の風情を醸している。
現在、楽々園と呼んでいる範囲は直興により造営されたと伝わる下屋敷の範囲
江戸時代「欅御殿」と称されたが下屋敷であると同時に「隠居所」として使用
井伊直弼は隠居していた11代藩主直中の子として欅御殿で生誕した。
❹幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は35歳で藩主となるまで彦根城佐和口近く
で暮らし、当時住んでいた屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存する。
❺こけら葺き屋根が美しい馬屋が城内に残るのは全国でも彦根城にしかない珍し
い建物!藩主などの「馬」21頭がつながれていた。
❻彦根市のマスコットキャラクタ-“ひこにゃん”は彦根城で毎日出会える。
❼昭和47年4月友好都市の茨城県水戸市から寄贈された“二季咲桜”は
冬(11月~1月)春(4月~5月)と年2回開花する。
❽彦根城の郵便ポストは“彦根城オブジェ”が鎮座している。
〈城 郭 描 写〉
ふと思い立ち久し振りに“彦根城”に足を運びました。
小ぶりなれど破風を巧みに組み合わせた優美で荘厳な変わらぬ風情を眼にし、他に
類を見ない唯一無二の城であると改めて実感しました。
全く想定していなかった“紅葉”彦根城では季節が“秋”にタイムスリップしたかの
ように城内の本丸・西の丸・太鼓丸・鐘の丸では見頃を向かえていました。
城郭と紅葉コラボレーション!思わぬプレゼントに心が揺さぶられました。
今年8月の台風7号により天秤櫓の漆喰壁の一部が剥がれ落ち修復作業行われて
いましたが、工事用足場が映り込む景観に少し残念な思いがしました。
投 稿 吉 村 竹 信
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私が個人投稿始めたきっかけはコロナ禍で同好会活動が休止となり、HPの閲覧件数が減少したため
HP委員長の子安さんから「閲覧数を増やしたいので協力して欲しい」との要望を受け始めました。
これまで2ヶ月に1回ペースで個人投稿しています。
コロナの感染状況も鎮静化し、同好会活動が再開!地域懇親会も頻繁に開催されるようになり
HPの閲覧件数が飛躍的に伸びています。
今思うことはそろそろ個人投稿の役目を終えるタイミングではないのか??
閲覧件数、良いね!のクリック件数はそれなりに頂いていますが、今年個人投稿(7件)に寄せられた
コメント数は平均2件~3件です。個人投稿今回を区切りにしたいと思っています。
ふと思い立って彦根城へ行かれたようですが、時季的に視て紅葉はどうかと思われましたが、紅葉と彦根城のコラボレーションが拝見でき良かったですね!!
ところで撮影旅行は誰と行かれたんですか? 一人で行かれたんですか………❓ 何時もの事ながら様々な角度からの撮影、お城に関係する事細かな説明をして頂きありがとうございます。次は誰と何処のにを撮影旅行されるか分かりませんが、楽しみにしています。健康で元気にご活動ください。
水野さん
予想通りのコメント有難うございます(._.) もちろんマイワイフと出掛けましたよ(^^♪
コメント行き違いになりましたが、個人投稿の役目も終わったと考え、今回の投稿を
もって一旦区切りをつけたいと思っています。
吉村さん何時もシリーズ投稿有難うございます。私は何時も朝晩中部支部HPを拝見し新しいUPが無いか確認しています。毎日メール確認、各種HPチェック、FB等を確認してコメントも入れています。双方向でのやり取り良いですね。同好会活動もコメントが沢山発信され良いと思います。これからも各種活動が活発に発信され定着すると良いですね。
種田さん
丁寧なコメント有難うございます(._.)
同好会及び支部行事のコメント投稿ここに来て定着しましたね(^_-)-☆
種田さんが根気強くコメント発進続けたことが実を結んだと思います!有難うございます(^^♪
健やか楽歩会ではコメントのやり取り以前から普通にやっていますね。
後は長野分会ですね(>_<) 種田さん、水野さん、私(吉村)が長野分会同好会や分会行事にコメントするも
一度たりとも長野分会からのコメントはありません。※支部長より一言話をして欲しいところですが駄目でしょうね((+_+))
お互いコメント覧活用これからも継続しましょう!!
いつもありがとうございます。
今回で終わりとは、、、吉村ファンが寂しがりますよ。お城シリーズも現存12城、以前まとめての紹介がありましたが、その後詳細な素晴らしい解説での紹介を頂き楽しみにしていました。
H/Pへの掲載をまとめて、写真集でも、現存12城の紹介といった本が出版できるのでは?
とにかく、楽しみにしておられる方が多いことと思います。
イイネもあっという間に10件を超えています。
これを見られた方は、ここのコメントに続けて下さいと一言で良いので書き込みお願いします。